第一話 訪 問 者




 時折よく耳鳴りがする。
頭の中でゴォ―ッと嵐のような轟音がし、それは肥大しやがてからだを覆う。それは決まって夜にやって来る。地を這うように充満されたそれは様々な感情を誘いだす。怒り、悲しみ、苦しみ、孤独感に狂気。それは涙となって体外へ押し出される。枕がびっしょりになる頃には大抵耳鳴りも止んでいた。
 耳鳴りがし始めたのはだいたい一年ほど前からだ。家に着き部屋に入るとなぜだかもの凄いだるさと倦怠感が裕子を襲う。からだはずしりと鉛がかかったように重い。そういう時は大抵灯りもつけないままベッドに倒れ込む。
 同じだるさでも、さんざん遊びまわって疲れたとか、酒の効き過ぎで眠たいとか、そんな類のものではない。誰もいない砂漠の上にたったひとりで放り出された。そんな感じのものだと思う。
 ひどいだるさから逃れようとベッドに身を投げると、数分もたたぬうちにそれは前触れもなく訪れる。最初は忍び足で侵入するが、そこにいるのが裕子1人だとわかると、ずんずんと足音を響かせ土足で踏み込んでくる。うまく裕子に恐怖を慄かすと、満足したように胸を真っ二つに裂いて去って行く。馬鹿らしいと思うかもしれない。けれど、本当に恐いのだ。だから、最近はひとりで寝ていない。
 そう、裕子はもう三日も家に帰っていないのだ。親には成績の悪い友達の勉強を見るからと言っている。表向き面倒見が良く、成績も優秀な裕子を、両親は簡単に信じ込んでくれた。

 人気のない深夜の住宅街にぽつんと聳え立つ少し古ぼけたアパートから、ひとつだけうっすらと明かりを灯す部屋があった。それは月夜の光とは比にもならないほど小さく、そして儚い。けれど、見定めるのには充分だった。もう帰っている。そう心のなかで静かに呟き、ぎしぎしと軋む階段をゆっくりと昇った。
「なんだ、裕子か」
 チャイムを押すと見慣れた顔が覗く。恋人の康隆だ。康隆はこの付近にあると言う聞いたこともないような名の大学に通っていて、裕子とはナンパで知り合った。最初はもちろん無視していたのだが、何度も何度も最寄り駅が近いのかばったりと会ってしまい、口を聞くようになった。付き合ってもう三ヶ月になる。
「こんな遅くにどうしたんだよ」
 康隆はぼりぼりと頭をかきながら口を大きくあけて欠伸をした。だらしなく口角が緩む。手にうっすらとインクが滲んでいた。どうせ、また提出期限の過ぎたレポートでもしていたのだろう。
「終電逃しちゃったの、泊めてよ」
 裕子はそう言い、康隆の返事も聞かず、踵の擦り切れたローファーを脱ぎ捨て部屋にあがりこんだ。背後で康隆の溜め息が聞こえる。それには微かに呆れが込められていたような気がした。けれど裕子は気付かないふりをして座り心地のよいソファへと身を投げ込んだ。
「また夜遊びでもしてたのか」
 康隆はそう言ってコーヒーメーカーのスィッチをいれる。
「いいじゃない。毎日毎日つまらないんだもの。少しくらい息抜きしたっていいでしょう」
「お前の場合、少しじゃねぇだろ。ほどほどにしとけ。だいたい昨日も一昨日もそうだったじゃねえか」
「何よ、そう言うタカちゃんだって、よく一晩中遊びまわってるじゃない」
 康隆は何も言わずに苦笑いをした。コーヒーのいい香りが部屋中に広がる。康隆の淹れるコーヒーはそんなに苦くないのにコクはあり、飲みやすくてとても美味しい。
「ほらよ」
 そう言って康隆は淡いマグカップを二つ、テーブルの上に置いた。裕子はありがとうと呟くと、両手で添えて、マグカップを口元へと運ぶ。喉を通るコーヒーの程よい苦味が現実感を与えてくれた。
「ママには電話したのか」
 ブラックのままコーヒーを飲みながら康隆が尋ねる。
「したよ、とっくに。友達の家で勉強するって言ってある」
 裕子がコーヒーにペットシュガーをいれながら言うと、康隆は納得がいったように唇の端を持ち上げた。
「なんだ、計算ずくかよ」
 今夜も家には帰らない。そのつもりで学校を出た。そして百貨店のトイレで着替えて渋谷を出歩き、クラブで騒いでここに来た。つんとくる煙草の匂いが未だニットのベアトップにこびり付いている。
 ふと、カツンとマグカップをテーブルに置く音がした。そして次の瞬間視界は反転し、裕子の瞳には御世辞にも真っ白とは言えない天井が映った。ソファの軋む音がする。
 康隆の唇が裕子の唇を塞ぐ。伝わってくる熱を感じてか、裕子は静かに瞼を閉じた。大きな産みのような香りが鼻を擽る。心の奥底で沸き立つ何かを鎮めるように、裕子はしっかりと康隆の広い背中を抱き締めた。



 翌日の天候は雨だった。それも激しく地面を叩きつけるような豪雨。車の窓が雨と埃で雲ってよく見えないのに加えて、汚水が洗車したばかりの車に跳ねかかり汚れてしまう。康隆は軽く舌打ちをした。
 裕子は黙って窓の外を見つめていた。立ち並ぶ少し田舎くさい商店街の横を、裕子と同じ服を着た女子生徒や、ブレザーをだらしなく着崩した男子生徒が笑い合ったりふざけあったりしながら、同じ方向に向かって歩いている。中には裕子がいつもつるんでいる友人達の姿も見えた。彼らはひとつの建造物へと当たり前のように吸い寄せられてていく。奇妙な風景だと裕子は思った。
「どこまで送ればいい?」
 ふいに漏らす康隆の不機嫌そうな声が裕子を現実へと引き戻した。我に返り、えっと朧げに呟いて体を起こすと、見なれた康隆の横顔が目に映った。康隆の顎のラインは繊細で奥行きが深い。けれど、今見える康隆の視線は先程からずっと景色もろくに見えない曇ったガラスに向けられたままだ。ハンドルを握る指先が、彼の苛つきを隠そうともせずおしみ出している。
 康隆は決まって雨の日になると機嫌が悪くなる。自分の縄張りに踏み込まれた猛獣のように、鬣を奮い立たせ、ピリピリとした空気を張り巡らしている。
 最初は自分が何か悪いことでもしたのかと毎回考えこんでいた。けれど雨が降るたびひどく機嫌を損ねる康隆を見ているうちに、この人はそういう性質なのだと知った 。
「そこの曲がり角まででいい」
 学校の前まで送ってもらったりした日には、生徒達の好奇に満ちた視線をくらうことになる。別に大したことはないが、あまり気分のいいものでもない。
「ついたぞ」
 感情の起伏のない、けれども苛ただしさが見え隠れする声で康隆が言う。裕子は何かを言おうとして口を開きかけたが、すぐにやめた。
「じゃあ、またね」
 ああ、とぶっきらぼうな康隆の言葉と、裕子の車のドアを開ける音が重なった。最後、車から降りる時にもう1度背後を振り返ったが、康隆と目が合うことはなかった。
 エンジンのけたたましい騒音と、息もつまるような排気ガスを撒き散らして車は消えて行く。裕子はそれを見送ることもなく颯爽と歩き始めた。別に後ろ髪を引かれるようなこともない。
 聞きなれたチャイムの音が鳴り響く。裕子は纏わりつく感情を振りきろうと校門に向かって走り出した。
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 裕子の通う高校は名門の私立高校だ。私立にしては割と珍しい共学なので、人気があり競争率も高い。世に言うミッションスクールと呼ばれる部類の所で、校風が自由で活気がある上、生徒達の意見を尊重してくれているところが世間やPTAにうけていた。裕子も、この高校の自主性が高い所は気に入っている。反対に気に入らない所といえば、登校時のラッシュが凄まじいことと、学食の定食があまり美味しくないことぐらいだろうか。
 この高校を志望する際、当然担任に志望理由を聞かれた。その時、「制服が可愛いから」と迷いもせずはっきりと断言した裕子を、ぽかんと口をあけ唖然として見ていた彼の顔を、今でもはっきりと覚えている。
 確かにここの制服は可愛い。紺のエンブレム付きのブレザーに、カッターではなくボタンダウンのシャツ、えんじと赤、白の3色をセンス良く使ったリボン、それにグレーのプリーツスカート。ブレザーのボタンは見栄えのよい金で造られていて、それには桜を象った校章が刻み込まれている。中に着るセーターも、黒・白・紺・ベージュ・グレーなど地味な色のものならば、基本的に自由ということになっていた。
 色々と自分でアレンジできるこの制服を、裕子は確かに気に入っていた。結局、この制服を選んでよかったなと思うのは、制服を羨ましがる他校の友達を見た瞬間なのかもしれない。
「見たよ、裕子。今日も朝帰り?」
 教室に入った途端、クラスメイトの美希が声をかけてきた。長めに伸ばした前髪から、好奇心で目を輝かせた無邪気な顔が覗いて見える。裕子は大げさに反応して見せた。
「うん、すっごいラブラブ。もう昨日なんてすごかったんだから」
 美希がひやかしながら裕子の背中てをはたいた。
「いいなぁ、ウチの彼なんて毎日部活ばっかり。この前なんて折角オフだったのに、今日は家で寝る!なんて言っちゃってさ。もう最悪」
 美希はウェーブのかかった肩まである茶色の髪を風になびかせながら、鼻にかかったような声で言う。さんざん脱色し、パーマやカラーリングを繰り返した髪は艶がなく、みすぼらしいものだった。本人もそれを気にしているのか、最近はヘアサロンてでパックをしてもらっているらしい。
「佐藤君、確かバスケ部だよね」
「うん、そう。この前3年が引退して、キャプテンに任命されんだって」
「疲れてるんじゃない?」
「そうかなあ?だって、友達と遊ぶ元気はあるんだよ」
 それは単にあんたの相手が嫌ってだけでしょ、と裕子は聞こえないように呟いた。
「なんか言った?」
「べつになにも」
「あーあ、裕子が付き合うのはいつも年上だもんね。どうせ私達みたいな青臭い恋愛なんて興味ないんでしょう」
「そんなことないわよ」
「嘘、ぜったいある」
 裕子はないって、と曖昧な笑みを浮かべながら言った。その言葉に嘘はない。毎日学校で顔をあわせ、授業中こっそり目で合図をしあっり、日差しが心地よい屋上で絶景を堪能しながら弁当を食べたり、手を繋いで他愛もない話をしながら登下校をすることに憧れを抱いたことも実際あった。けれど、裕子はどうしてもそんな自分を思い浮かべることができないのだ。それはやはり、そういう恋愛が自分に向いていないからなのだと思う。
「たまたま付き合ったのが全部年上ってだけよ。機会があったら、高校生らしいお付き合いってやつもしてみたいな」
 裕子の言葉に美希はいたずらっぽく舌を出す。
「私も機会があってたら、大人の恋愛ってやつ、1度くらいしてみたいわ」
 裕子の無邪気な声と始業開始を知らせるチャイムが重なった。教室が途端にざわめきだす。裕子は着席して、ぼんやりと外を眺める。
 雨の日は嫌いだ。康隆は雨が降る夜、誰かが傍にいることをひどく嫌う。夕方までに雨が降り止まなければ、今夜はいったいどこに帰ればいいというのだろう。康隆の顔色を伺いながら夜を過ごすのは、やはり気の進むものではない。
 もう潮時なのだろうか。いくら両親が裕子の嘘を信じ込んでいるとはいえ、限度がある。彼らはもう、幾らかの矛盾に気付き始めているだろう。
 裕子は再び溜め息をついた。前では担任が口角に唾をためながら、聞き取りにくい数学の公式を捲し立てている。アイロンもろくにあてられていないシャツの上からでも、はちきれんばかりの腹の贅肉が、無駄に高価そうなベルトの上に圧し掛かっているのがわかった。どうせ自宅では絵に描いたようなかかあ天下で、女房には尻にしかれ、娘には邪険に扱われて、肩身の狭い思いをしているのだろう。目を伏せていてもだらしなさが伝わってくるような風貌に、裕子は吐き気すら覚える。
 ふと裕子の背後で聞こえねぇよ、と呟きが漏れる。それと同時にクスクスという笑い声が四方八方で沸き起こった。担任は汗をくしゃくしゃに丸まったハンカチてでぬぐいながら、聞き飽きた公式を再度口にする。もう何度も目にしてきた光景だ。
 こんな男のつまらない授業を聞かなくても、教科書を開けば必要な公式や知りたい知識は全て載っている。この男から学び取ったものといえば、中年男の器量の悪さと無神経さ、あとは体臭の臭さぐらいなものだ。
 つまらない。裕子は心のなかで呟く。男の濁った目が歪んでしまうまで、ずっと。


「で、おれんとこに来たってわけか」
 おれは暇つぶしかよ、とてビリヤードのキューをはじきながら春樹は言った。形よく調えられた三角形が気持ちの良い打音とともに色鮮やかに散ってゆく。春樹は右手で軽くガッツポーズをとると、再び裕子のほうを向いた。
「だいたいお前、彼氏はどうした。ほら、例のタカちゃんとかいう男前。一応まだ続いてるんだろう」
 『一応』『まだ』という言葉が下卑た響きを持っているよに思え、裕子は微かに眉をひそめた。それはどういうことなのだろうか。何か深い意味があるのだろうか。春樹は裕子と康隆の関係をおままごとのようなものだと見なしているのだろうか。季節の移り変わりのように、人の心もやがては色褪せてしまい、消えてゆくものだと。だから、無意味だと。春樹はそう思っているのだろうか。裕子は訝しく思い、少しきつい口調で言う。
「なんかムカつくな、その言い方。ちゃんと続いてるわよ、かなりいい感じなんだから」
 そう吐き捨てた後、まるで地に足がついていないような空しい感覚が裕子を襲う。語尾が擦れているのが自分でもわかる。心の裏まで見透かされてしまいそうで、裕子は顔を伏せた。
「あっそ」
 春樹はそっけなく言い、ミリタリージャケット手の内ポケットからマールボロを取り出した。春樹は昔からよくこれを好んで吸う。煙草を吸う男の横顔は普段よりも3割増しに格好よく見えるというが、春樹はまさにそれだった。こんな男が彼氏だったら皆羨ましがるだろうな、と裕子は深くにもそう感じた。
 春樹とは夜遊びで来ていたこのプールバーてで知り合ってもう一年になる。当時、その細くて長い指でキューを弾く春樹のその姿は、バーにいた女の興味を充分すぎるほどに唆していた。十八の割には大人びた顔立ちと、その中で唯一少年ぽさを持つ綺麗なカーブを描いた二重瞼、がっちりと鍛え上げられた肩に、そして繊細さを失わない雰囲気は、一年経った今でも女を魅了するものがある、と春樹を見た女達は言う。
 けれど、春樹はどこか変わったと思う。そう思うのは自分だけだろうか。確かに全て見透かしているような眼差しも、芸術家のような指先も、持って生まれたとしか思うないビリヤードの腕だって、少しも衰えていない。むしろさらに磨きがかかったように見える。
 けれど少年ぽさを持って止まなかった無垢な瞳から、今は純粋さが消えたように思う。裕子の考え過ぎなのかもしれない。けれど、こうやってじっくり春樹の横顔を眺めていると、昔はなかった哀愁というものが、彼の周りをねっとりと纏わりつくように漂っているように見える。
「ねぇ」
 少し鼻にかかったような声で裕子は言う。
「なんでハルは上京してきたの?」
 春樹は箱から煙草を一本抜き取り、口にくわえた。身を屈ませて慣れた手つきで火をつける。Zippoのライターが擦れ合う金属音がバー内に響く。途端先端からゆらゆらと白い煙が昇ってゆくのが見えた。
「東京で音楽の勉強をするためだよ」
「高校は?」
 春樹は煙草の煙をおいしそうに吸い込んだ。白い煙が春樹の割と小さめの唇からゆっくりと吐き出される。裕子はそれをぼんやりと眺めた。
「やめたよ」
 春樹の声が少しくぐもったように聞こえた。裕子は一瞬戸惑ったが、舌に乗せかけた疑問を押し戻すことはできない。
「いつ?」
「お前ぐらいんときに」
「そんとき、親や先生とかになんか言われたりした?」
 裕子は身をかがめ、春樹の顔を覗き込むようにして言った。春樹は少し身をひくと、なんだよ、と不機嫌そうに顔を歪める。
「いきなりどうしたんだよ、今までそんなこと聞きもしなかったのに」
 春樹はそう言うと、中指と薬指のあいだに挟んでいた煙草を床に弾き落とした。裕子の足元にぽろぽろと灰が散らばってゆく。
「おれ、帰るわ」
 春樹はそう言い、持っていたキューを裕子へと付きつけた。
「ちょっと、ハル――」
「お前さ」
 春樹は床に落ちていた黒の財布を拾い上げると、無造作にジーンズのポケットにねじこむ。
「おれが言えた義理じゃねえけど、すげえ荒んでるぜ。この世の終わりみてぇな感じ」
 春樹はそう言うと、洒落た造りのドアをあけて階段を降りていった。下で春樹と店員がなにやら楽しげに話している声がする。料金はツケにしといて、と無邪気に店員に絡む春樹の笑い声が、なぜかずしんと響き渡った。



 辺りには何も見えない。ただ不気味な闇が塵ひとつ落とさず空間に染まっているだけだ。上も下も右も左も墨汁を所かまわずぶちまけたようなく炉さ。けれど恐怖の原因はこれだけではない。
 無数の足音が闇に充満している。それが裕子のものではないことはすぐにわかった。足音とともに響く笑い声は、聞きなれた自分の声ではない。一体何人いるかもわからないそれは、熱くもないのに裕子の肌をねっとりと湿らせる。
 裕子は意を決して足を前に踏み出した。最初はゆっくりと伺うように。そしてだんだんと速度をあげて、やがて猛スピードで走り出す。けれどそれは決してひるまない。裕子の恐怖で歪んだ顔を楽しむように、やがてずんずんと足音を響かせて追いかけてくる。それは想像を絶するほどの速さだった。
 やめて、来ないで、あっちへ行って!!
 息はあがり、足は感覚も無いほどだるく、頭が別の生き物のようにくらくらと音をあげている。声にならない叫び声をあげながら、それでも裕子は走り続ける。
 真っ暗な闇の中、狂う方向感覚をなんとか保ちながら裕子は逃げ道を探す。あっちでもない、こっちでもないと試行錯誤した結果、ようやく裕子はぼんやりと灯るひとつの明かりを見つけた。
 逃げ切れた。裕子は叫び出したいほどの歓喜に包まれ、その灯りをくぐる。途端、ドンッという鈍い音がして、裕子の視界は何かによって塞がれた。
 痛いなあ、と裕子はぶつくさと不満を呟き、体を離して顔をあげた。するとそこには先程裕子を追いかけていた笑い声の主がのっそりと立っているではないか。
 それは恐怖と驚愕とで顔をくしゃくしゃに歪ませた裕子を見て、満足そうにけたたましい笑い声をあげた。

 目が覚めると、視界に映ったのは見慣れた自分の部屋の天井に貼ってある映画俳優のポスターだった。裕子は荒い息を整えると、ゆっくりとベッドから起きあがり、壁に掛けられてあるアナログ時計を見た。ちょうど夜中の3時をまわったところだった。
 裕子は両手で顔を覆い、溜め息をつく。綿のパジャマはびっしょりと汗で濡れ、気持ちが悪い程にべっとりと執拗に肌に張り付いている。裕子はベットの下で無造作に散らばっているディズニーのキャラクターがプリントされたタオルハンカチを取り、首筋の汗を拭った。
 もうこの夢を見るのは何度目だろうか。ひとりで眠ると決まって見るこの恐怖にいつまで苦しめばいいのだろう。毎晩訪れる得体の知れない侵入者にいつまで怯えなければいけないのだろう。
 裕子は枕もとに置いてあった携帯電話を手元に引き寄せ、画面をスクロールさせる。そしてまだ微かに震えが残っている指手で通話ボタンを押す。何度も聞いた呼び出し音のあと、癖のある女の声が耳に響いた。
『ただいま電話にでることができません。ご用のある方は―』
 裕子は再び溜め息をつき、電話を切ってベッドへと放り投げた。携帯電話となにかがぶつかったような鈍い音がしたが、裕子は気にも止めなかった。
「うるさい・…」
 うっとういほど耳鳴りがぐわんと響いて止まない。閉じた筈の瞼から幾つもの筋を描いて涙が流れ落ちる。いつもそうだ。毎晩裕子は、原因すらわからないこの悪夢と耳鳴りと涙に悩まされている。


 翌朝少し遅れて登校し、教室に入ると、自分の机の上にA4の用紙に印刷された一枚のプリントが大雑把に置かれてあった。
「なにこれ」
 裕子はそれをつまみあげると、おそようと言って茶化しながら駆け寄ってきた美希に問う。美希はああ、と呟くと、左サイドの髪の巻き具合を気にしながら言った。
「なんか進路希望調査表みたいなもんだよ。来週末までに提出だってさ」
 裕子はいくらか低い声でふうんと呟いた。プリントには少し濃い目のインクで書かれたふたつの表が印刷されている。それには卒業後の進路を大学進学又は就職のどちらかにするか、又進学する者は現時点での志望校候補の記入をしろ、というものが書かれていた。
「気、早いよね、うちらまだ二年だよ?進路だのなんだのって言われても、全然実感湧かないっつうの」
 美希はそう言い、裕子の鞄のポケットからピンクの鏡を抜き取った。まだ髪の巻き具合を気にしているのか、毛束を指でねじったり引っ張ったりしている。
 美希の髪は比較的剛毛なので、巻いても巻いてもすぐにとれてしまう。だからいつもはコードレスのコテを鞄にしのばせているのだが、どういうわけか今日は忘れてしまったらしい。
「ね、どうせそんなの今やっても無駄だよね。」
 本当に、そう思う。一年以上も先のことを、たった一週間という短い期間でどうして決められるというのだろうか。前々から目的や将来の希望がはっきりしている連中はいい。けれど裕子や美希はもちろん、ほとんどがまだぼんやりとしたフィルターがかかったよう風景のに何も見えていない状態なのだ。
「まあ、適当でいいんじゃないの?」
 美希はそう言い、諦めたような口調で鏡を裕子の鞄の中に放り込み、半ば不満そうに髪をかきあげる。
 美希は呑気な性格だ。今が良ければそれでいいというお気楽思考で計画性が全くと言っていいほどない。個性ともいえるその無責任さに、よく裕子は呆れ、てこずったものだ。
 けれど、ふと思う。こんな美希でも一年後は真剣に進路を考えるようになるのだろうか。大学のパンフレットを山のように熱め、参考書を何冊も購入し、大宰府にお参りなどいくのだろうか。美希のそんな姿は想像に堅かった。美希に『努力』という言葉は似つかわしくない。彼女には『怠惰』というものがぴったりと当てはまるように思う。
「そういえばさ」
 美希は思い出してたように言う。
「あんた呼ばれてたよ、担任に。来たらすぐ職員室に来るようにってさ」
「うそ、マジで」
 裕子はうんざりとしたように呟く。口角に唾をためて早口に捲し立てる担任の顔が脳裏を掠め、裕子は怪訝そうに眉を細めた。
「最近裕子、素行悪いもんね。家には帰らないわ、遅刻はするわ、授業は聞かないわで」
「授業聞かないのはあんたも一緒でしょう」
 まあね、と美希は言い、肩を竦めた。


 時折、職員室ほど気を使う場所はないのではないかと裕子は思う。新しく塗りかえられた壁と、つんと鼻にくるくどい整髪料の匂いがあまりにも不釣合いで息苦しい。下手に装飾されたセンスの悪い室内は緊迫した空気が張り詰めていて、随分と年のいった教師達がそれぞれのデスクに向かい、パソコンのキーを叩いている。カチカチカチカチと機械的で無情な音が響く。
「村川先生」
 裕子はいつもより低い声で担任の名を呼んだ。裕子なりの反抗、というものだ。村川はパソコンから少し体を離すと、こっちへ来いといわんばかりに手招きをした。
「近藤、今日はなんで遅刻したんだ?」
 裕子はまたか、と毒づきたい気持ちを抑えながら、慣れた言い訳を口にした。
「ただの寝坊です」
「お前、これでもう何度目だと思ってるんだ。今週ずっとそうだったじゃないか。わかってるのか?んん?」
 唾液でぬらぬらと光る前歯が覗いて見える。裕子は気持ちが悪いといわんばかりに露骨に顔を歪めた。
「それに最近授業態度も悪いじゃないか。一体どうしたんだ、何か悩みでもあるのか?」
「 …別にありません」
 裕子は俯いたまま、むすっとした声で答える。
 放っておいて欲しい、裕子が望むのはただそれだけだった。一体なんの権限があって、村川はこんなに干渉するのだろうか。自分が生徒の役に立つとでも思っているのだろうか。勘違いも甚だしい。この男は自分というものをちっともわかっていないのだ。
「近藤には私達教師も期待しているんだよ。君はもちろん進学希望だろう?君なら頑張れば国立も夢じゃないと思うよ。付近なら、そうだな…あそこなんてどうだ?この前…」
「先生」
 裕子は静かに、けれどはっきりとした声で村川の言葉を遮る。職員室の空気が少し縮こまったように感じた。村川は少し驚いたのか、カメレオンのような目を瞬かせた。
「もう行ってもいいですか。塾があるんです」



 雨は昨夜にも増してザアザアと狂ったように降り続いている。どんよりと曇ったあかね雲がひどく歪んで見えた。裕子は教室の窓ガラスを這うようにそっと触れた。
 ひんやりとした冷たい感触があった。それは決して雨や気温、ましてや冷風のせいだけではない。裕子の手を氷結させるそれら以外のなにかが、確かに存在している。
 塾の予定なとでなかった。たとえあったとしても、たぶん裕子はいかないだろう。もう随分長い間出席していないのだ。講師達は裕子の顔どころか存在すらも忘れているのではないだろうか。
 裕子は制服のポケットから携帯電話を取りだした。ボタンをスクロールさせ、目的の番号をディスプレィに表示させる。プルルル、プルルル……と規則的な呼び出し音が耳に響く。暫くしてそれはプッと途絶え、低い男の声が聞こえてきた。
「はい」
 不機嫌そうな康隆の声。それを聞いて、裕子は今雨が降っていることにようやく気が付いたような気がする。
「ねぇタカちゃん、今日そっちに行ってもいい?」
「ああ?今日?」
 明らかに不服そうに康隆が唸る。
「又今度にしてくんねぇか?おれ、今日疲れてるんだよ」
 受話器のむこうから、康隆の豪快な欠伸 が聞こえてきた。
「やだよ」
「やだって……」
「帰りたくない」
 裕子は静かに呟く。それは本音だった。
「お前、わがまま言うなよ」
 困り果てたというよりも、うんざりとした口調で、康隆はぴしゃりと言い放つ。
「な、今日は家に帰れ。最近お前まともに帰ってないだろう」
「ねぇ、タカちゃん」
 裕子は不自然にならないようにいくらか声色を明るくする。
「なんだよ」
「タカちゃんってどうして今の大学に入ったの?」
「」ああ?なんだよいきなり
 脈絡の無い裕子の発言に、康隆は一層機嫌を悪くする。語尾が強まり、眉間に皺を寄せて頭をがりがりとかいている姿が目に浮かぶようだ。
「いいから答えて」
 少し間を置いて康隆が言った。
「とくに理由なんてなかったな。つうか、大学だったらどこでもよかったってのが本音」
「なんで大学に行きたかったの?」
「なんでって、楽しそうじゃん」
「実際楽しかった?」
 裕子は一気に捲し立てる。はあ、と溜め息が漏れたように聞こえた。それは呆れと微かな軽蔑が混じった、裕子の最も嫌うものだった。
「どうしたんだよ、今日のおまえなんか変だぞ」
「つまらないの」
「なにが」
「毎日毎日つまらないの。いつも同じような日の繰り返しで、それが退屈で退屈でたまらないのよ」
「それは耳にタコができるくらい何度も聞いたよ。だから最近夜遊びしてウサ晴らししてるんだろ」
「違うの」
 自分でも驚くほど、か細い声だった。まるで自分の声じゃないような声。それは無垢という言葉がぴったりと当てはまるようだった。
「え?」
「私が言ってるのはそんなんじゃないの。遊んでてもつまらないの。楽しいはずなのにつまらないの」
 毎日が淡々と過ぎてゆく。それに不満を持ったことも、自分を不幸だと思ったこともない。気の合う友達がていて、傍に居てくれる恋人もいる。両親とはうまくいっているほうだし、家も割と裕福だ。通っている高校は都内でも人気の高い有名私立高校。充分過ぎるほど恵まれていると思う。
 けれど裕子はどうしてもそれを現実として見ることが出来ない。自分の両足で地を踏みしめている感覚がまるでないのだ。全てがつくりもののような気さえして、当たり前のように用意された分かれ道をどちらかに選択することさえも躊躇してしまう。
「そんなこと、おれに言うなよ。おれはおまえのカウンセラーじゃねえんだから」
 康隆は心底鬱陶しそうに言う。それは裕子をなにより失望させるものだった。教室に掛けられてある時計がぐにゃりと歪んで見えた気がした。
「ごめん、疲れてるしもう切るわ。また電話する」
 康隆はそう言い残し、あとにはツーツーという不気味な機械音だけが残されていた。携帯電話を握っていた裕子の手がするりと緩む。裕子は何かにとりつかれたかのように窓の外へと視線を向ける。
 相変わらず雨は止むことなく轟々と降り続いている。雲は濁り、空は澱み、吹き荒れる風はとても荒んでいる。それは裕子自身を表しているようでもあった。
 今晩もまた、裕子はあの夢を見るだろう。耳鳴りがざわざわと纏わりつくように響き渡るだろう。けれども裕子は恐怖を感じなくなっていた。
 気付いたからだ。あの訪問者が裕子自身だということに。あれは、裕子の影だったのだ。
『今のお前すげえ荒んでるぜ。まるでこの世の終わりみてぇな感じ』
 ふと春樹の言葉が脳裏を過った。春樹の純粋さが失われた瞳を思い浮かべながら、本当にそうだなと裕子は静かに呟いた。


訪問者・完



◆ あ と が き ◆

今まで書いた作品のなかで、このピーターパン・シンドロームほど苦労した作品はありません。。。

恋愛がメインじゃないから難しい。十代が抱えがちな、言葉でなかなか言い表せそうも無い

孤独をどう表現すればいいのか、どうすれば伝わるのか、どうしたらまとめられるのか。

これを書き上げるのにすっごく悩みました。

書き上げたら書き上げたで、絶対なんかおかしいっていうのが、ずっとずっと消えなくて、

こうやっている今も、もどかしさを感じてる今日この頃です。

訪問者の続き、『音とサボテン』の主人公は春樹です。
 ぜひ次も読んでくださぃ♪





女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理