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うさぎの林檎



 女同士の呑み会というものは男で始まり男で終わる。今年二十六になるOL、河上麻衣子も決してその例外ではない。二、三人の仲の良い友人達を自分のアパートへ招き、隣人らの迷惑も顧みずにわいわいと騒ぐ。出る話題はもちろん恋人や別れた男の愚痴。先程からずっとそれの繰り返し。麻衣子はビールを片手に先程別れた恋人の愚痴をぶちまけていた。
「でさあ、もうお前とはやっていけないって言うんだよ」
 呑んでいたビールをやや乱雑に置き、あまり呂律の回っていない口調で麻衣子は言う。
「ひどくない?先に好きって言ってきたの、向こうなのにさ」
「出来あがってるよ、麻衣子」
   友人の祥子が煙草に火をつけながら言う。おいしそうに煙を吐き出しながら、唇の端を微かに曲げた。
「麻衣子、隆君と結構長かったもんね。確か二年くらい?」 
「違う、3年と六ヶ月」
と17日、と麻衣子はふてくされたように呟く。細かいよ、と祥子が豪快に笑いながら言った。彼女の声は今時珍しいヘビースモーカーのせいか、ひどくしがれた声をしている。
「元気だしなよ、麻衣子らしくないじゃん。ハイ次って感じで明るく行こうよ」
 無造作にポンポンと肩を叩きながらそう言ったのは、中学時代から交友関係が続いている美香だ。
「そんな簡単に次が見つかったら誰も苦労しないって」
 肩を落として投げやりに呟く麻衣子に、祥子はまた蛙を踏み潰したような声で豪快に笑う。大げさに反応してしまうのは、彼女の長所でも短所でもあるようだ。
「なによ、そういう祥子はどうなのよ」
 麻衣子はムッとし、怪訝そうに顔を歪める。
「どうって」
「飯田部長のことよ。まだ切れてないの」
 祥子はゆっくりと煙を吐き出す。飯田部長とは、麻衣子や祥子の勤める会社の宣伝部の上司だ。温厚な性格で人当たりはいいが、ベルトのうえにでっぷりとのった脂肪と、すっかり薄くなった髪の毛が、彼の風貌をだらしなく見せていた。祥子はこの男と半年前から体の関係を伴っている。いわゆる、不倫というやつだ。
「ええ」
 祥子は淡々とした口調で言う。祥子と飯田部長の関係を麻衣子が知ったのは、二ヶ月程前、都内のシティホテルのカウンターバーでだった。割と容姿の整ったキャリアウーマンの祥子と、冴えない中年サラリーマンの飯田部長。麻衣子は初めてそれを目に止めた時、滑稽としか表現できそうにもないその組み合わせに、意外性よりもあまりの可笑しさに吹き出してしまいそうになった。翌日祥子を連れ、飯田部長とそういう仲だったの、と尋ねると、彼女はすました顔でええそうよ、と涼しげに返した。そして、やはりそれを聞いた途端、麻衣子は再び吹き出してしまったのだ。
「結婚するの」
「まさか、しないわよ。むこうにはちゃんと子供もいるんだから」
「祥子はそれでいいの」
 祥子は煙草をすっかりと灰皿に押しつけ、深い溜め息をつく。
「そんなもの、彼には求めていないわよ。結婚が目的ならとっくに縁切って、もっといい男でも見つけてるわ。ただ一緒にいて楽しいだけ、それだけよ。」
「ふうん」
 祥子の指が微かに震えていた。麻衣子は気付かないふりをして、ううんと大きく背伸びをする。
「美香は?そろそろいい頃なんじゃない」
 時刻は深夜の二時。女の小宴会はまだまだ続きそうだった。



麻衣子が目を覚ました時、友人達は皆休日出勤やらなんやらでとうに出掛けた後だった。
窓から差しこむ日差しの暖かさや、小学生ぐらいであろう子供達の笑い声から、現在の時刻がとうに正午を過ぎているということを明確にさせている。
 麻衣子は身をよじり、溜め息をついた。
部屋の隅に置いてあるガラス製のテーブルの上には、祥子と美香の書置きがあった。『またよろしく』とだけ書かれてあった素っ気無いメモに、麻衣子は微かに頬を緩ませる。麻衣子はゆっくりとからだを起こして呟いた。
「隆、もう昼だよ、起きて…・・・」
 そう言いかけて、麻衣子はすぐに口を噤んだ。隆はもういないのだ。昨晩もう自分の目の前から姿を消したじゃないか。だから友人達を招いたというのに。
「おれ朝弱いんだよ。目覚ましかけてもなかなか気付かないんだ。悪いけど、朝は起こしてくれないか」
同棲を初めて、最初に隆はそう言った。言葉の隅々に見て取れる隆の子供っぽさに、麻衣子は肩の緊張が緩むのを感じた。
 それから、麻衣子はいつも隆より二十分は早く起き、「もう朝だよ、早く起きて」と、麻衣子はいつもそう言って、寝起きの悪い隆を揺さぶり起こしていた。不機嫌そうな隆の顔を見ては安心し、卵焼きと目玉焼き、どっちがいい、と聞く。あくびをして、虚ろな瞳をしつつ大抵隆は卵焼きをリクエストする。甘いやつにして、と。まるで、小さい子供のようだった。麻衣子はよくそれに顔を緩ませたものだ。
 「もう一時か……」
 折角の日曜だというのに、予定は何も入っていない。いつもなら追われているはずの週末の仕事も、接待も、今日に限ってないのというのだから、運の悪さにほとほと溜め息をつきたくなる。窓の外からさんさんと照りつける太陽の日差しを、心底うっとうしく思い、麻衣子は一思いにカーテンを閉めた。
 麻衣子はベッドからゆっくりと起き上がり、部屋をぐるりと見まわした。いつもならば、部屋に落ちている隆の服も、枕元に置いてある彼の携帯も、寝室の棚に置いてあったレコードも、趣味としていた釣りの雑誌も、何もかも全て、塵一つ残さず無くなっている。たったひとり、いなくなってしまっただけで、どうして全く別の部屋になってしまうのだろう。それは、ペットの犬や猫が出てていったという感覚とはまるで違っている。
 顔を洗おうとして、麻衣子は洗面所に向かった。洗面台に置かれていたシェーバーもジェルも、ペアのストライプの歯ブラシも、もうここにはない。日に焼けた跡が、3年半という長い歳月を悲しげに象っていた。時の流れがこんなにも速かったのか、ということを、麻衣子は今初めて知ったのかもしれない。鏡覗いて、ふと思う。
 麻衣子は決して悪い女ではなかった。茶がかかった髪は綺麗に手入れが施され、艶を帯びていて決してやぼったくなかったし、二十六の割に瑞々しい肌を持つ麻衣子はよく友人からも羨まれたりもした。職も、一流、とはいえないが、そこそこ名のしれた会社だったし、性格も家庭的だ。
 映し出された鏡からは、隆がよく鏡越しに誉めてくれた、麻衣子のうっすらと茶色がかかったふたつの瞳が見える。麻衣子はもう一度鏡をよく見、自分の瞳を見つめた。
 深く覗き込んで、麻衣子は再び溜め息をついた。今の麻衣子の瞳は全くと言っていい程透き通ってはいなかった。純粋さは消え、その変わりに軽い汚濁のようなものが見て取れた。いつの間に自分はこんな目をするようになったのだろう。そしていつから隆にこんな瞳を見せていたのだろう。
 いつの間にか、麻衣子の滑らかな頬の上を暖かいものが流れているのを感じた。それは隆に対しての謝罪なのか、それともただの悲願なのだろうか。
 するとその時、ふと携帯電話が聞きなれた音を響かせた。
「もしもし……」
 麻衣子はいつのまにか床に転がり落ちていた携帯を手探りで見つけ、ボタンを押した。受話器の向こうから聞こえてくるのは聞きなれた男の声。一瞬隆ではないかと思ったりもしたけれどそれはすぐさま甘い理想へと姿を変えた。それは男の台詞が隆が発するものとはあまりにも矛盾があったからである。
「おれ、裕輔。美香から聞いたぜ、隆と別れたんだって?なんだ、お前泣いてるのか?」
麻衣子は叫んでいた。裕輔、逢いたい、と。本当に心からそう思っているのかは定かではなかったけれど、繰り返し何度も叫んでいた。裕輔、逢いたい、逢いたい、と。心の中で隆の名を何度も呟きながら。


 裕輔は、麻衣子の高校時代の時からの友人で、気を許せる男友達のひとりであった。繊細な隆とはまた違う、ごつく男らしい体格をしていた裕輔は、大学でバスケをやっていた。気さくで自分の思っていることを何でもずけずけと言う裕輔は頼り甲斐があって、昔から周りに兄貴的存在ともいえた。
「電気くらい、つけろよ。辛気くせぇな」
裕輔はそう言い、小ぶりのビニール袋を片手にずかずかと麻衣子の部屋へと入る。それはいつまでたっても少し遠慮がちに入って来ていた隆と違っていて麻衣子に少しの新鮮さを与えた。
 初めてこのアパートを隆が訪れた時、ひどく緊張した面持ちで靴を脱いでいた。へぇ、ここが麻衣子の家か、と言わんばかりに、ゆっくりと丁寧に三日かかって掃除をした室内を見渡す。二十歳をとうに過ぎているというのに、まるで高校生カップルのようなその情景を見たら、きっと友人達は、おままごとみたいと言って笑い転げてしまうだろうか。けれど、それが麻衣子達にとって自然だったと思う。隆は無垢だったから。それが隆だったから。
 そう思い、麻衣子は普段友人達に対して零す愚痴があまり本心からでなかったことに気付く。けれど、今更気付いて取り繕っても何が変わるといえるのだろう。
「これ、お前の好きな林檎。むいてやるから食べろよ」
 そう言い、裕輔は台所に立った。いつも麻衣子が隆と食べる料理を造るために立ったキッチンに。何回かうちで呑み会を開き、料理の後片付けを手伝ってもらったことがあるからか、裕輔は包丁の場所ぐらいは把握している。
 裕輔は下の引き出しから包丁を取り出すと、慣れた手つきで林檎の皮を剥き始めた。
  「ほらよ。」
 裕輔はそう言い、少し乱雑に林檎のはいった小皿をテーブルの上に置いた。麻衣子はそれを見て、ふと呟いた。違う、と。
 裕輔にはあまり聞こえなかったらしくなんか言ったか、と言ったが、麻衣子はハッとして、ううんありがとう、と言ってフォークを林檎に突き刺した。
 うさぎじゃない。麻衣子は再び心の中で呟く。隆はいつも麻衣子が風邪をひいたら、必ずうさぎの形をした林檎を出してくれる。そのうさぎは正直言って御世辞にも綺麗とは言えなかったが、麻衣子はうさぎりんごよりも、普段炒め物もろくに造れやしない隆が自分のために林檎を剥いてくれる。それだけでじゅうぶんだったのだ。やっぱり高校生みたいな恋愛だった、と麻衣子は改めて思う。
「うまいぜ、その林檎。ばぁちゃんちから昨晩送られてきたやつなんだ。採れたばっかだから新鮮だぜ」
 そうなんだ、と麻衣子は呟いて林檎を一口齧る。シャリッとしたいい音がし、口内に林檎のいい香りが広がる。
甘く、そして少し酸っぱい味は、確かに近所のスーパーで買った1袋円の林檎よりも新鮮で美味しかったが、それだけだ。あの暖かさはない。あの愛しさと気恥ずかしさは、この林檎にはない。麻衣子は何遍も美味しい、という言葉を繰り返す。その間何度もあのうさぎの形をした林檎が脳裏を過った。そんななか、ふと裕輔が思い出したように言う。
「そういえば、ちょうど今から五年前ぐらいだよな。お前に隆を紹介したのは」
 隆と初めて会った日など、嫌になる程鮮明に覚えている。それを悟られたくなくて、麻衣子はそうだっけ、と曖昧に笑う。
 大学二年の時、裕輔は麻衣子によく同じサークルで仲のいいやつがいるんだ、お前も会ったら気に入るぞ、と言って麻衣子の興味を擽った。あの時、麻衣子はふうんそうなの、と言って軽くあしらっていたが、その度に逢ってみたい、という思いが募っていたことを裕輔は気付いていたのだろうか。そして半年後、裕輔の家で行った呑み会で隆と逢ったのだ。あぁ、これがあの隆君、と麻衣子は納得したような声を出した。それは、歓喜を隠す大げさともいえる仕草だったんだ、と麻衣子は思う。
 おそらく隆も同じだっただろう。裕輔から聞かされていた麻衣子を見て、あぁ、これがあの麻衣子さんか、と思っていたに違いない。まさかこれから三年間も一緒に暮らすということは夢にも思わずに。
 筋肉質で逞しい裕輔と違い、隆はどこか繊細な雰囲気があった。指で触れたら痺れてしまいそうな、そんな雰囲気。
「もう五年も経つのか……」
 裕輔は『五年』という言葉に老人のような感嘆の響きを込めた。それが妙におかしくて、麻衣子は顔を緩ませる。
「隆とおまえが付き合うことになるなんて、本当はおれ、あまり考えてなかったんだぜ」
 裕輔は懐かしそうに口元を綻ばせる。麻衣子は言う。
「裕輔が紹介したんじゃないの」
 すると、裕輔は少し笑った。
「そうだけど、やっぱりそうなっちまうとびっくりするもんなんだよ。仲のいい奴らが付き合うのって、なんかおれにとっちゃ気恥ずかしいんだよな」
 変なの、と麻衣子は笑い、林檎を盛り付けていた小皿をキッチンの流しに置いた。美味しかったよ、と裕輔に一言付け加えて。すると、じゃまたばあちゃんから貰っておいてやるよ、と背中をむけたまま裕輔は言った。
 それは、また麻衣子の家で林檎を剥いてくれる、ということなのだろうか。自分が求めているのはあくまであのうさぎの形をした林檎であって、裕輔の祖母が丹念に、誠意をこめてつくった林檎ではない。軽く感じる、自己嫌悪。麻衣子ははぁ、と溜め息をついた。麻衣子の暗い表情を察知してか、裕輔が言う。
「そういえば、去年の学際、隆女装させられてたよな。金髪の縦ロールの鬘かぶって、ピンクのフリルのワンピース着てさ」
「うん、やけに似合ってたよね。女の子かと思っちゃったもの」
「そう、あそこまで張り切ってたのに結局5位どまりだったんだよなぁ……」
 あの学際の夜。忘れもしない、幾千の星空のしたで輝くステンドグラスを持つ講堂の中での出来事。居残りで講堂の掃除をしていた麻衣子のもとへ裕輔は女装したままでやって来た。金髪の縦ロールをつけ、ピンクのグロスを塗り、ぱっちりとしたマスカラをたっぷりつけて告白する隆の姿は、一種のバラエティかと思うほど、滑稽でならなかった。目を開けて唇を離し、互いに見つめ合うと、麻衣子は思いきりぷーっと吹き出してしまい、雰囲気を台無しにしてしまったのだった。
「一昨年隆と麻衣子とおれと美香でキャンプに行ったんだよな、覚えてるか?」
「覚えてるよ。山道の岩に引っ掛かって車のタイヤ、パンクしちゃったじゃない」
「あぁ、あん時は焦ったよな。美香なんて真っ青になって、私達このまま変えれないの??なんて涙目になっちまってさ」
 ふためいている美香の後ろでは、一緒になって慌てている隆がいた。
「ほんと、懐かしいよね……。また行きたいな……」
言いかけて、麻衣子はすぐに口をつぐんだ。馬鹿みたいだ。また、なんてこと、もうありはしないのに。
「なつかしいなーっ」
裕輔はそう言い、大きくからだを反らし、豪快なあくびをした。ラグビーで鍛え上げられた逞しく拾い背中。隆とは違う。


 『お前は確かにいい女だと思うよ。仕事もできるし、学歴も優秀で容姿もいい。けど、男にのめりすぎるんだよな』
 昔そう言ったのは麻衣子と昔付き合っていた高校時代の生徒会長を務めていた男だ。
麻衣子は恋愛に忠実な女だった。男が望む姿をなんなりと見抜き、自分のものへとする女。描いた理想に限られた時期、男は夢中になる。しかしその時期を過ぎると、その紛い物に呆れどころか慄くようになり、男達はするすると尻尾を巻いて退散していくのだ。
 その度、深い後悔が麻衣子を襲う。あれは本当の自分じゃない。だから捨てられたのだ。今度からはありのままの自分を好きになってもらおう。そう決心しては、また新しい男の好みの女に成り下がってしまう。外見だけの、中身がなにもない、ただの抜け殻の女。現実味のない女に。そうしてはいつも裕輔や友人達に愚痴を聞いてもらう日々が続いていた。
 隆とのこともそうだったのだろうか。いや、そんなことはない。麻衣子は首を左右に降り否定しようとする。隆といる時は着飾ることなど必要なかった。そういう手順を一切無にしてしまう男。それが隆だったから。麻衣子は素のままでいることができた筈だ。だったらどうして、隆は自分の元から去って行ってしまったのだろう。やはり気付かぬ間に何かをしでかしていたのだろうか。あんなに愛し合っていた筈なのに。離れることさえ、不自然でならなかったほど通じ合っていた筈なのに。
「…麻衣子」
 憂いを帯びた、労るような声で裕輔が麻衣子の名を呼ぶ。麻衣子はゆっくりと顔をあげる。頬を撫でる指先が感じたこともないぬくもりを伝えていた。
「麻衣子…」
  もう一度、裕輔が裕子の名を呟く。いつのまにか裕輔と麻衣子はあと数センチという距離のなかにいた。
「…反則だよ」
 麻衣子はうっすらと目を開けたまま、呟くように言う。
「なんとでも言え」
 裕輔がそう呟いたのと、ふたりの影が重なったのは、同時だった。




 隆のぬくもりがまだ残っているベッドで、裕輔と抱き合っていることを隆が知ったら、彼はどういう反応をするだろうか。飽きれる?怒る?それとも悲しむ?馬鹿な考えだ。もう隆は麻衣子のものではない。そして麻衣子も、もう隆のものではないのだから。
 裕輔の唇が、そっと麻衣子に触れる。唇に、首筋に。優しく擦れそうな声で麻衣子を呼ぶ裕輔が、なぜか手の届かない場所にいる遠い存在に見えてしまう。今、裕輔に抱かれようとしている自分を冷静に見ている自分がいる。


「おれ、もう麻衣子とやっていく自信、ない」
 いつもの時間、麻衣子が作った夕飯をふたりで食べながら、いつものようになにげのない会話をしていた。違ったことといえば、いつもより隆の口数が少なかったことぐらいだが、それは仕事の疲れからきたものだと思っていた。しかし、違った。
「え……」
 いきなりの、予想だにしていないこの言葉をすぐには飲み込むことができなかった。
「麻衣子も、気付いていた筈だ。僕らはもう終わりだってこと」
「何を根拠にそんなこと、言うの」
 唇が震える。出たのは、ひどく陳腐な言葉だった。
「冷めちゃうわよ、食べて。でないと後片付けに時間がかかる」
「…麻衣子」
「あ、そうそう最近電子レンジの調子が悪いの。新しく買い換えたいんだけど、隆どう思う?」
「麻衣子!」
 隆はいらついたように語尾を荒くする。そして、麻衣子の目をゆっくりと見据えて言った。
「もう疲れたんだよ。おれの好みの女になろうと、必死で自分作ろうとするお前見てんの」
 麻衣子は味噌汁をいれたお椀を掴むと、隆に向かって投げつけた。それは隆の胸のあたりに広がって無残な染みをつくり、床へごろんと転がった。テーブルに置かれた隆の夕飯には、殆ど手がつけられていなかったことに、麻衣子はやっと今気が付いた。


 居間の絨毯には、今でもまだあのときの味噌汁の染みがこびり付いたまま、とれずにある。それはもう、一生取れない染みになってしまうだろう。それでも構わない。少しでも、隆がいたという跡を残しておきたかったのだ。
「隆・・・・」
 裕輔の滑らかな背中に手を這わせながら、麻衣子は呟く。裕輔の背中がぴくりと反応する。
「隆…隆……」
 いつのまにか、麻衣子の頬の上を涙がつたっていた。裕輔はからだを離すと、麻衣子の顔をゆっくりと眺め、そして静かに瞼の上にキスをした。
「なんで、また泣いてんだよ……」
 もう今更、忘れること<なんてできないのかもしれない。この部屋には隆の温もりが消えることなく存在し、褪せることなく、隆はすでに麻衣子の日常の一部になってしまっている。その一部が消え、ひた隠しにしていた淋しさが顔を覗かせてしまい、それを埋めたいがために、今麻衣子は裕輔を利用しているのだ。
「泣くなって…」
 指で、裕輔は麻衣子の涙を拭う。隆とは違う、ごつくて、男らしい指。その瞬間、麻衣子のなかでなにかが生まれた。それは嫌悪というものだった。
「…やめて」
 頬の上で、なぞっていた指の動きが止まる。麻衣子はもう一度、きっぱりと言い放った。
「裕輔、やめて」
これ以上、惨めな女に成り下がりたくはなかった。
 裕輔の体が、微かな震えを残して、ゆっくりとベッドから離れる。幼い頃から見慣れていたはずの裕輔の背中が、ひどく小さく子供のように見えた。


「あんま、思いつめんなよ」
 玄関先で靴をはき、帰り支度をしている裕輔を、麻衣子は不思議な思いで見つめていた。あんなことがあって、まだ十分とたっていないのに、まるで何事もなかったように向かい合って会話をしている自分達が、不思議に、そして悲しくにも思う。
「まさか拒まれるとはな」
 裕輔はいたずらっぽく鼻で笑った。麻衣子も、つられて申し訳なさそうに笑う。今までにも、こういうことは何度かあった。けれど裕輔を拒絶したのは、今回が初めてだった。
「まあ、麻衣子も成長したってことか」
 裕輔は八重歯を覗かせて豪快に笑う。だが、今度は麻衣子は笑うことができなかった。
 果たして自分は成長できるのだろうか。同じ所を右往左往するだけではないのだろうか。淋しさを埋めたいがために、また裕輔ではなく、他の誰かを求めたりしないのだろうか。自信がない。
「じゃあな」
 裕輔は麻衣子の頭をぽんぽんと軽くたたいた。それは、昔から裕輔がよくやってくれていた頑張れよ、のサインだった。麻衣子は軽く笑って、ありがとうと言う。
「なあ、麻衣子」
 ふと裕輔が言う。
「なに?」
「もし、おれがお前を好きだって言ったらどうする?」
 麻衣子の動きが止まる。ゆっくりと伺うように、裕輔を見上げた。そこには知らない男がいた。
「…冗談だよ。そんな顔すんな」
 裕輔は少し困ったように眉を細めて苦笑する。
「じゃあな」
 裕輔はそう言い残し、ゆっくりとドアを閉めて部屋を出ていった。しばらく、麻衣子は呆然とドアを見つめていた。動かなかった。隆が出ていった時と、同じように。
 頭のなかで思い浮かぶのは、麻衣子を抱いていた裕輔の瞳。それは、確かに、濡れていた。




◆ あ と が き ◆

去年の11月に書き始めた作品やねんけど、

小学館文庫賞の応募作品執筆のため、半分書いたあと中断。

残りを2時間のペースで一気に書き上げた作品。

これ、麻衣子と隆の追憶小説に思うひともいるかもしれんけど、

実はこれ裕輔との悲恋小説なんよね。

創作期間は半年やけど、書き上げた時間はわずか5時間。笑

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