第二話


音とサボテン




 どこかで聴いたような旋律だった。JR渋谷駅ハチ公口を出て、最初に耳に入ったそれに、春樹は溜め息をつく。野太い男の声だった。階段横の壁に腰掛けて、安物のアコースティックギターを抱えている男の目の前には、角が折れた楽譜が広げられてある。ふいと視線をやると、譜面には赤い色のペンで隅々まで何かが書かれていた。そのちょうど右隣には、ステッカーやシールが大量に貼られたギターケースが口を開けている。中には五十円玉三枚。ちゃちなボランティアのほうがまだましだ。春樹は自然に口角が歪んだ。
ハチ公口を出るとすぐ見える、高くそびえ立つ犬を中心として、眩しくなるような色の服を着た女達がよく焼けた褐色の足を放り出して座り込んでいた。手にはブランドロゴが不自然に目立つ手鏡を持ち、熱心に中を覗き込んでいた。ぎょろりと目玉をむき出しにして、マスカラを持った右手を小刻みに左右へ動かしている。彼女達をぐるりと囲むように 張り巡らされている木製のベンチの上には、左右非対称の髪型をしたスーツの男が三人と、目の下にクマを作ったサラリーマンが数人座っていた。
 雑踏の中から浮き彫りになる着信メロディが、グレイのスーツを着たサラリーマンのポケットで鳴った。米米CLUBの浪漫飛行。どこからか甲高い笑い声が響き、ふと目をやると先ほどの女達がサラリーマンを指差し背中を仰け反らして、豪快に笑っていた。その視線から逃げるように、サラリーマンが動く。よろりと揺らぐ彼の肩がとんっと春樹の右腕にぶつかった。
 カーン。
飲みかけのコーヒーがはずみで落ちた。黒い液体が灰色のコンクリートを汚し、たちまちそれは広がっていった。春樹はしばらくしてからのっそりとしゃがみこむ。昔から愛用しているディーゼルのジーンズの裾には黒い染みが二点、付着しているのが見えた。
―デニムって洗濯機で洗えるっけ。
  軽くため息をつき、既に空になった缶コーヒーを拾った。吐く息は少し湿っていた。グレイのスーツはもう雑踏に消えて、見えなくなってしまっていた。
 人工的なサウンドが耳に響く渋谷センター街を抜けて、道玄坂へ向かった。さっきシャワーを浴びたばかりだというのに、もう脇に汗をかいていた。東京の夏は夜が更けてもかなり蒸し暑い。おそらくコンクリートばかりの建物のせいだろう。
「ハルくん」
 背後から鼻にかけた、雑踏の中に溶け込んでいる女の声。
「おお、この前の」
 名前なんだったっけ、と言いかけて春樹は口をつぐんだ。先日クラブのイベントで知り合った女だ。露出した右肩に並ぶ二つの黒子が見えた。
「どこ行くの?」
「特に予定はないけど」
「本当?じゃあ遊ぼうよ」
 女は豊かな胸を春樹の腕に押し付けた。
「別にいいけど、何処に行くの」
「私、プール・バーに行きたい。ハル君凄く上手だって、アキラが言っていたよ」
 アキラって誰だったっけ。
「俺、さっき行ったばかりだから」
「ええ、誰とォ?」
 女は頬を膨らまし、こちらを恨みがましい目で見つめた。芝居のかかった仕草に、春樹はふっと笑う。
「1人だよ」
「嘘、なんか今間があったもん。絶対女と一緒でしょう」
 春樹は答えない。
「やっぱり。」
 面倒臭い。
「ハルくん」
 女が名前を呼ぶのとほぼ同時に、春樹は女の手を引いた。うちに来いよ、と春樹は囁く。女は怒ったように春樹の胸をこづくと、されるままに手を握り返した。






 窓辺に飾られた幾つかのサボテンを見て、ハル君みたい、と女は言った。女は、その中でも茜色の植木鉢のものが気に入ったようで、先程からずっと眺めている。窓辺から月明かりが差し込み、豊かだがやや離れがちの乳房が暗がりの中くっきりと浮かび上がった。
 春樹はベッドサイドのスチールラックから煙草を取り出し、口に咥えて火をつけた。ゆらゆらと舞い上がる煙の中に映る、女とサボテンを見た。女の右肩に並んだ二つの黒子が揃ってこちらを見ている。
「二つ星だな」
「何が」
「お前の黒子」
「やだ、そんなところ見ていたの」
「会った時、最初に目に入った」
「顔じゃなくて?」
「うん、黒子」
 ベッドから半身だけ起こし、窓辺に佇む女の手を引く。女は反動で倒れこむ。女の長い爪が胸をかすり、春樹は少し顔を歪めた。
「なぁに?」
「もう一回」
 ふふ、と笑う女の唇を塞いだ。女は瞳を閉じ、春樹の広い背中に手を回す。
「ハル君は、黒子どこにあるの?」
 唇を離すと、女が問うた。そして春樹の身体を眺めようと少し上体を起こす。
「見なくていい」
 何も教えない。春樹は声にならぬ声で呟くと、女の身体を引き寄せた。女が小さな悲鳴を挙げたのと同時に、豊かな乳房を右手で愛撫する。手中でいやらしく形を変える女のそれは、春樹の手に吸い付いて離れない。先端の硬く尖った部分を口に含むと、女は背中を仰け反らせ、嬌声を挙げた。
 女は甘い吐息を漏らしながら、春樹の性器を掌で包んだ。そっと労わるようにゆっくりと撫でたかと思えば、すぐに口に含んだ。女の舌がそれを這う。快感が身体の中心を突き抜けた。
 モノトーンで統一された生活感のない一室で、絡み合うふたつの裸体。窓から差し込む月光はもう消えうせて、完全な闇が空間を支配していた。暗闇に慣れた瞳が、今は女の身体だけを捉えている。
―何も見たくないんだ。
 女の脚を広げ、すっかり硬くなった自分自身を中に埋める。朦朧とした意識のなかで、先程から変わらず形を保っているものがある。プール・バーで裕子が口にしたあの言葉。
―ハルはどうして上京したのー
春樹は激しく腰を揺さぶった。女の嬌声と淫らな水音が響く暗闇に、それが溶けて消えてしまうことを願う。加速する快感と共に、散ってしまえばいい。
出口が近づく。女が爪をたてる。白く輝く視界の隅で、黒々とした二つ星が見えた。春樹は低いうめき声を挙げて、女の上に倒れこんだ。
 どれくらい、そうしていただろうか。情事の後にやってくる、心地よいけだるさがまだ残っている春樹の背中を夜風が撫でた。肌寒さを僅かに感じ、春樹は上半身を起こす。窓辺を見ると、群青色の夜空を隠すように、生成り色のカーテンがゆらゆらと揺れていた。
「そういえば、窓開けっぱなし―」
女が言い終わるのを待たずに、一瞬カーテンが大きく揺れた。耳を劈く音と悲鳴が闇に響き、春樹は反射的に目を瞑る。窓辺には茜色の欠片が一面に広がっていて、いつの間にか再び差し込む月光が、それを禍々しく照らしていた。





 茜色をした植木鉢のサボテンは、康隆に貰ったものだった。一週間も続いていた雨がようやく止んだ、初夏の日の午後。薄く広がっていた鼠色の雲はどこかに消え去って、手を届けば届きそうな所に、綿菓子のような積乱雲が、透き通った空の合間にゆらゆらと漂っていたのを覚えている。
まだ高校生だった。放課後互いの家から五分もかからない公園で、すっかり萌黄色に染まったイチョウの木の下に寝そべりながら、コンビニで買った「ガリガリ君」を食べるのがこの季節の、二人の習慣だった。
狭くて小さな公園だった。鉄棒も滑り台もジャングルジムもシーソーもない。あるのは大人が四人入ると身動きが出来なくなる砂場と、タイヤを鎖で繋いだブランコだけだ。だが、殆ど人気は無いその公園が、二人のとっておきの場所だった。
汗が滲む額を拭いながら、きりりと歯に沁みるアイスキャンデーをかじる。白いカッターシャツの襟に、空色の水滴が滲む。照りつける日差しがイチョウの葉の間を通り抜けて二人の瞳を刺激した。くぐもって聞こえてくるのは、蝉の鳴き声だったろうか。
 特別な日でもなく、いつもと変わらぬ放課後だった。違うのは、いつも外れしか出なかった「ガリガリ君」が当たりだったことぐらいだ。
「やった、当たりだ」
 まだアイスキャンデーの欠片が残っている棒を高く掲げて、春樹は叫んだ。
「マジで」
「うん、マジ」
 康隆が、春樹の手元を覗き込む。
「もう一つ、貰ってくる」
「俺のもついでに買ってきて」
「割り勘?」
「お前のおごり」
 康隆は二つの八重歯をのぞかせて笑った。
「ふざけんな」
 春樹もつられて笑う。角が擦り切れて裏地が除いている学生鞄の中から、キャンパス地の財布を取り出す。貸しな、と付け加えて春樹は公園を出た。
 コンビニは、公園の斜め向かいの通りを少し歩いたところにある。少し小走りで歩いていると、黄色い帽子を被っている三人組の男の子とすれ違った。背中に背負っているランドセルはまだ充分に光沢がある。おそらく三、四年生ぐらいだろう。近所の公立高校の制服を着ている春樹を見つけた彼らは、「こんにちは」とやや上目遣いの瞳で挨拶をした。微笑ましさについ頬が緩み、春樹は頬を掻いた。
 通学路に指定されている、公園が面したこの通りを、春樹と康隆はもう十二年近く一緒に歩いていた。二人が小学生だった頃は、コンビニもゲームセンターもなかったが、代わりに駄菓子屋と文房具屋があった。毎月五百円のお小遣いをどうにか工面して、当時はやっていたモンスターゲームのトレーディングカードを集めるのが、二人の楽しみだった。希少価値の高いカードは毎回取り合いで、時には殴り合いの喧嘩に発展したこともある。  コンビニで、当たりが出た「ガリガリ君」の棒を店長に提示すると、顔馴染みの彼はやっとか、と豪快に笑った。
「お前達ガリガリ君ばっかり食べていると、そのうち血液が水色になるぞ」
「貴重な収入源に何言うんだよ」
 それもそうだ、と店長は笑って、ガリガリ君を差し出す。店内には、春樹の他、六人ほどの客がいた。その中には春樹と同じ制服を着ている客もいたが、春樹の知った顔ではなかった。
 康隆には他のアイスキャンデーを選んだ。別に店長の言葉を真に受けたわけではないが、限定フレーバーだったので、少しだけ気になった。美味しそうだったら、自分も今度買ってみよう。
 先程の小学生は影も形も見えなくなってしまっていて、代わりにそこには秋田犬の散歩をしている老婦人が一人だけいた。いつだったか、秋田犬を飼うのはぼけ防止にいいとテレビ番組で見たことがある。老婦人が連れていた犬は、まだ少し幼さが残っていた。
 公園に戻ると、康隆はキャンパスノートを広げ熱心に何か書き込んでいたが、コンビニの袋を下げた春樹に気づくと、すぐにそれを閉まった。
「ほら、買ってきたよ」
「サンキュ」
「何を書いていたんだ?」
「何だと思う?」
「どうせ、補習の課題か何かだろ?」
 康隆は何も応えずに、コンビニの袋を弄った。
「何だ、これ。見たことが無いや」
「期間限定だって」 
「夏蜜柑味か」
「うまい?」
「というか、味が薄い」
 外れだな、と康隆が背を仰け反らせて笑う。湿った風が、イチョウの葉を揺らした。
「なあ、春樹」
 上体を少し起こした格好で、康隆がこちらを見る。藍の色の瞳がいつになく深みを増していて、春樹は思わずたじろいだ。
「俺と音楽やらないか」
 全てはその一言が始まりだった。
 春樹と康隆はデュオを組んだ。ツインギターで、春樹がメインボーカルだった。何で俺と、と聞く春樹に対して、康隆は「曲に合う声だから」ときっぱりと答え、鞄の中に閉まったキャンパスノートを春樹に見せた。中にはびっしりと譜面が書き込まれていた。
 音楽はやり始めるととても楽しくて、春樹はどんどんのめり込んでいった。スタジオで何時間もみっちりと練習した後に家に帰っても、自室で深夜までギターを弾いて母親に怒られる日々が何度も続き、次第には曲の創作にまで手を出すようになった。
二人のユニット名は、康隆の部屋に大量に飾られていた「サボテン」と名付けた。それに決めた理由は特にない。字面だけが気に入っていた。ユニット名が決まった夜、康隆は春樹に「スタート記念だ」と言って、茜色の植木鉢のサボテンを春樹に渡した。沈みかけた太陽と植木鉢の茜色が重なって見えて、そのままそれが空に吸い込まれてしまうのではないかと、密かに春樹は案じていた。
 あの時の情景が再び春樹の視界に蘇ってきた。散乱した茜色の欠片の上に被さっているサボテンは、既に棘が数本抜けて痛々しい姿を露にしており、砂粒もフローリングの隙間に入り込んでしまっている。掃除をしなければ。そう思うのに、腰が重く動かない。女を帰した後も、情事の香りがまだ残るベッドに寝転んだまま窓辺を眺めていた。気を許せばすぐに這い上がってきてしまう、心の奥底に漂う雨雲を押し込めながら。





「お疲れ様でした」
 明治通りの一角にある、白と緑を基調としたダイニングカフェが、春樹のアルバイト先だ。白い壁に寄り掛かって観葉植物が至る所に置かれている。自然をテーマにしたこのカフェは、季節ごとのメニューが置いてあり、今月からは冷菓をいつもより五種類ほど増やし、「サマーフェア」と称して飲み物とのセット割引も実施していた。
勤務を終えコーヒーの匂いが僅かに残る衣服に袖を通すのは心地いい。マスターが淹れるオリジナルブレンドは、少し苦味が強いが、少量のミルクを加えるとコクと深みを増す。
 山手線に乗り、渋谷駅で下りた。駅のホームは退勤ラッシュのせいか、ジャケットに皺を作ったサラリーマンが溢れている。背筋はすっかり丸みきっていて、パッドを詰めた肩が下がり気味になっていた。あの肩に一体どれ程のものが積まれているのだろう。丁度よく上がってきたエレベーターに乗ると、ストレスのせいか酷く臭う彼らの口臭が室内に充満していて、春樹は思わず顔を歪ませた。
 渋谷駅の西口を抜けて、真っ直ぐ歩くと道玄坂に出る。そのまま左手に歩くと、桔梗色のライトが歩道を照らしているのが見えた。春樹がよく行く馴染みの店の一つだ。さほど高くない新築のビルの地下にそれはある。階段を下りて扉を開けると、大音量のサウンドが身体に響き、心臓が浮いた。
「ハルか」
 カウンター越しに、バーテンダーが笑う。
「どうも」
 ハルは軽く頭を傾け、真ん中のカウンターに腰掛ける。店内には既に頬を高潮させて酒を呑んでいる数組の団体客がいた。いつもより数が多い。そういえば今日は金曜日だったことを春樹はふと思い出す。
「今日は遅いな」
 バーテンダーはグラスを磨いていた手を止めて、ガラス製の灰皿を春樹の手元へ押しやった。
「店が終わってから来たから」
「そうか。何にする?」
「いつもの」
「了解」
 春樹の丁度背後にある、扉の右隣から左の壁にかけて設置されている六つの水槽がこの店の売りだった。水槽の真下から純白のライトが水槽を照らし、色鮮やかな熱帯魚が水面を漂い波紋が広がるたびに、熱帯魚の色が変化する。蒼は緑に、ピンクは深みのあるオレンジに。光の波長の一部が透過し、その効果で混色されて見える熱帯魚は、ずっと見ていても不思議と飽きない。
 バーテンダーが、カクテルグラスを差し出した。ジンをソーダで割ったものだ。名前はあまり覚えていないが、昔からよく好んで飲んでいる。
 喉が渇いていた。昨晩から、乾きは既に喉だけじゃなく体中を蝕んでいる。グラスに口をつけて、一気にそれを飲み干した。けれど乾きは収まらない。
「ハル」
 名前を呼ばれて振り向くと、背後には比較的体格のいい男が立っていた。丸刈りした頭にハンチング帽を被り、2サイズは大きめであろろうジーンズを履いている。
「お前もよく来るのか、ここ」
 男はそう言って、春樹の隣に腰掛けた。春樹は懸命に記憶を辿る。男の顎にはビーズ程の大きさの黒子があった。
「アキラ」
 昨日の女が言っていた男だ。
「マサさん、俺もこいつと同じの頂戴」
 マサさんと呼ばれたバーテンダーは、人のよさそうな笑顔で笑い、カウンターの下の死角にあるアイスボックスから氷を取り出した。アイスピックで氷を割る衝撃音が耳に響く。
「ハル、この前のイベント来なかっただろ。シンヤが会いたがっていたぞ」
 シンヤは、確かアキラの後輩だ。
「悪い、バイトが入っていたんだ」
「バイトって、カフェスタッフだっけ」
「そう」
「時給いくら」
「八百五十円」
「安いな、もっとおいしく生きろよ。ホストとかどうだ?ハルの顔ならナンバーワンは 無理でも結構いい線までいけると思うぜ」
「考えておくよ」
 バーテンダーがアキラの手元にグラスを置いた。春樹と同じ、透明の液体の上にライムが漂うそれを、アキラは一息に飲み干す。
「あ、そうだ俺お前に頼みたいことがあるんだけど」
「何だよ」
 春樹はポケットから煙草を取り出し、口に咥える。
「お前、音楽やっていたんだって?」
 火をつけようと、動いていた指が止まった。春樹は始めてアキラの瞳を見る。薄い茶色のカラーコンタクトをしているアキラの瞳の色は、ひどく人工的だった。
「アキラ、それ誰に聞いたんだ」
 声が微かに震える。
「ああ、ナミだよ。覚えているだろ?この前ハルが来ていたイベントにもいた女だよ」
 昨晩、春樹が組み敷いた女のことだった。春樹の脳裏に二つ並んだ黒子が蘇る。
「どうして、あいつがそのことを知っているんだ」
 女はこちら側の人間ではない。
「春樹の部屋にギターがあったのを見たんだと」
 確かに部屋にはギターがある。しかし、それはベッドの下に収納してあるものだ。見られたのか――。春樹は唇を咬んだ。
「俺がイベントサークルをやっているのはハルも知っているだろう?でもダンスが出来る  やつらが今年は少ないんだよな。ただでさえ最近客足が悪いのに、このままだと存続の危機なんだよ」
 クラブのイベントで、ダンスチームによるパフォーマンスはいわばトリに相当するもの だ。それは春樹も知っている。
「だからさ、今度は音楽もやっていこうと思っているんだよ。バンドの演奏なら、チケットも売りやすいし、ダンスだけじゃ足を運びにくかった客も行きやすいだろ?」
「それで、俺には何を」
 引きつってうまく笑えない顔の筋肉をなんとか動かし、春樹は言葉を紡いだ。
「ハル、俺たちのイベントでギターを弾いてくれないか?ハルなら顔もいいし、女の客を呼びやすいんだよ」
 心臓が、肺が、胃が、肝臓が。身体の臓器が全て宙に浮いたような感覚が春樹を襲う。
暑さのせいだろうか、膝の裏にはひどく汗をかいていた。アキラの茶色に染まったガラス 玉の瞳が曇っているのか澄んでいるのかさえ、春樹にはもう分からない。それが善意か悪 意かさえも。
「くだらない」
 舌に乗せられた言葉は、自分でも驚くほど低く毒気を含んでいた。
「は?」
 アキラの眉根が歪んだ。店内の空気が騒々しさを増す。
「お前たちのお遊びに俺を巻き込むな」
「何だと?もう一度言ってみろ!」
「ああ、何度だって言ってやるよ、自分の利益しか考えてない馬鹿げたお遊びだってな!」
 一瞬鈍い音がした。殴られたと気づいたのは、壁に背中を打ってからだった。頬に鈍い痛みが走り、口の中を切ったのか、舌を這わせると鉄のような味がする。店内に響く女性客の悲鳴。

康隆が死んだ。三日後に初めてのライブを控えていた、初雪が降った冬の日のことだった。原因は交通事故。赤信号にも関わらず無視して強行突破した車と接触。頭と腕を強く打ち、春樹が康隆の母親から連絡を受けて病院に駆けつけた時にはもう、康隆は既にこの世から去っていた。
霊安室で、白装束を着て清められた康隆は、春樹のよく知る康隆ではなかった。頭髪は禿げて頭皮が見え、左の頬骨が折れたのか顔の輪郭も歪んでいた。そして右腕には十つ程の痣が散らばっていて、右手の中指は外側に曲がってしまっている。唯一変わっていなかったのは、康隆の左手の甲にある、三つの黒子だけだった。
「おい康隆」
 声を発せば必要以上に響く。
「何寝ているんだよ、おい起きろよ」
 春樹は康隆の肩を掴み、静かに揺さぶる。康隆の肩は、こんなに小さかっただろうか。
「お前、指こんなにしやがって。ふざけんなよ、ライブは三日後なんだぞ。これじゃあギター弾けねえじゃねえか、なあ康隆」
 春樹君、と康隆の父親が春樹の右腕を掴んだ。温かい、体温のある手だった。康隆の冷 たくなった手とは違う。けれど、康隆にだって手はある。手だけではない。肩も左頬も脚 も頭もちゃんと康隆は持っている。何が違う。春樹や彼らと康隆は何が違うというのだ。
鼻の奥は痛み、瞼の奥が熱くなる。涙が頬を伝い、春樹の掌に零れ落ちた。獣のような 泣き声が室内に響く。涙も鼻水も混ざり合って、春樹のTシャツを汚す。歪んだ視界の隅に映る三つの黒子が、春樹をいつまでも眺めていた。目を瞑っても消えてはくれない。
 今度は春樹がアキラの右頬に拳を繰り出す。そしてまたアキラが春樹を殴る。このやろう、このやろう、このやろう。何度も互いに叫び合い、その度に鈍い痛みの跡が身体中に残る。このやろう、何で死んだりしたんだよ、このやろう。このやろう。このやろう。





進路が決まっていた大学の入学費を上京資金に回した春樹は、勘当同然で東京に来た。音楽の専門学校に通うためだった。独学では限界がある。田舎では専門的な技術をこれ以上身につけることが出来ない。
 何かに取り憑かれたように、春樹は一心不乱に寝食を忘れて練習に励んだ。その甲斐あって春樹の技術は次第に研ぎ澄まされていき、実力もそれなりに付いてきた。けれどその度に春樹の奏でる旋律は、コンピュータで作成したような機械的な音楽に近づいていく。
―ハルはどうして上京したの―
 心の奥底に鍵を閉めて閉じ込めた箱には、最初から答えが眠っていたのを春樹は知っている。知っていたから、見ていないふりをして記憶の底に閉じ込めた。
二人で過ごしたイチョウ並木の公園も通学路もコンビニも、あの街は康隆の面影が色濃く残っている。一人で歩いていると、左肩を撫でる風が春樹を苦しめた。康隆と共に二人で奏でる旋律が、春樹の求める音楽だった。
 何もかも捨てて堕ちてしまえたのならどんなに楽だったろう。茜色のサボテンもギターも春樹はまだ捨てられない。
 乱闘騒ぎを聞きつけてやってきた警察の事情聴取を受け、交番を後にした頃には既に夜は深まっていた。暗闇にネオンの光が幾多も灯されている。あの街ではネオンの光も外灯もないけれど、そのぶん星がよく見えて幼少の頃は望遠鏡を持って天体観測をしたものだ。
 東京の夜空にも星はある。けれどたくさんの人工的な光に遮断され、見えなくなってしまっている、と誰かに聞いたことがあった。俺も同じなのかもしれないな、と春樹は思う。まだ、何も見えていないのかもしれない。
 ふと、どこかで聞いたことのある歌声が聞こえた。音の出所を辿ると、ハチ公口に出る階段横の壁に腰掛けている男が見えた。昨晩見かけた男だった。同じ安物のアコースティックギターを抱え、角の折れた楽譜を広げている。
 この男はこんな時間まで歌っているのだろうか。春樹は男の前で立ち止まる。ギターケースの中には百円玉が一枚しか入っていなかった。春樹は、財布から五百円玉を取り出し、ギターケースの中に入れた。男は指を止め、春樹を見上げる。
「一曲歌ってほしい」
 男は柔らかい笑顔で笑う。二つの八重歯が除いた。
「はい、何がいいですか」
「米米CLUBの浪漫飛行」
 男は目を見開いて春樹を見る。寝不足のせいか目は充血して赤かったが、男の目は濁っていなかった。
「好きなんだ。子供の頃、友達とよく歌っていた」
「そうなんですか、実は僕もなんです」
 男が奏でる旋律に、春樹は耳を傾ける。コードはよく飛ぶ上に音程もずれているけど、なぜか不思議と心に響く。気がつけば、春樹も男の声に合わせて歌っていた。終電を逃してタクシーを待つ人々が、好奇の視線を二人に向けてくるけれど、春樹は何故か少しも恥ずかしくはなかった。
「いい歌ですね」
 ふいに幼い少女の声がして、春樹と男は顔をあげる。都内では有名な私立の女子高の制服を着た少女が二人の前に立っていた。少女の手首には分厚い包帯が巻かれている。
「もう一曲、聞かせてもらってもいいですか」
 もうすぐ太陽が昇る。朝になったらサボテンを買って、康隆に会いにいこう。











あ と が き


ぅっわぁぁぁぁ。。。前作[訪問者]と今作[音とサボテン]。創作期間に約五年もの穴があります。笑

なので文体もまるで違いますので、訪問者は加筆修正する必要がありますね。。笑

「音とサボテン」は就職活動中に現実逃避で(笑)書いた作品です。

楽しんでいただければ幸いです。

次の主人公はさゆりです♪ご期待ください。













女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理