ひとを、殺めたと言うのに。 見上げた空は変わらぬ色で広がっている。 変わらぬことが――何故か酷く、苦しかった。 世の乱れは、悪化こそすれ治まることは無いだろう。 故に、無一物である己にも名を上げる可能性がある。 頭では、其れが意味するものが何であるかを理解していた――いや、理解したと思っていた。 だが、刃が人の肉を切り裂く感触と血のにおいは、理解したと思っていたことを容易く引っ繰り返した。 頭の中だけで描く百の戦など、一の本物の戦の――殺し合いの前では、壁の落書きほどの薄さしか無い。 乱世に名を上げると言うことは、血と屍の間を這い回ることなのだ。 未だ手には、人を斬った感触が生生しく残っている。 手を見れば、振り下ろした刃の下の断末魔を思い出してしまいそうで。 だから、空を見た。 何がある訳でもない。 いや、聞きたかったのかもしれない、天とやらに。 だが――何を? 「空に……何か、あるか?」 声をかけられ、漸く他者の存在を思い出せた。 公孫賛は、呆れているだろうか。 何か返さねばと思うものの、何を言えば良いのか解らなくてまた――空を見る。 「これからは、こういうことも増えるんだぞ」 肩が、震えた。 そう、解ってはいるのだ――戦では、この手で流す血の量も、今日の賊の討伐とは比較にならないものになるのだ、と。 解ってはいても、未だ何処かで受け入れたくないとも思っている。 乱世で名を上げることを望みながら、何と青臭く甘ったれた感傷であることか。 「あとで洗えよ。人間の血と脂で切れ味が悪くなるって知ってるだろ」 知っている。 人を斬ったことは無かったが、人の血と脂が容易く剣から鋭さを奪うことは、知っていた。 差し出された剣は自分のもので、黒く変色し始めた血と生白い脂を早く洗い流さなければ、あっという間に鈍になってしまうことも。 なのに、何故、自分は受け取ることを躊躇っているのだろう。 「劉備」 名を呼ばれ、其れに押されるように剣を受け取る。 重い。 剣とはこんなにも重いものであったろうか。 ……貴方は何故、そんなにも揺らがずにいられるのだろうか? 「何だよ」 何処か突き放す響きがあった。 甘えるな、と言うことだろう。 解っていたが、その揺らがぬ様に、視線がきつくなるのを止めることが出来ない。 「賛兄は、これから起こる乱世に……名を上げますか」 気が付けば、そんな問いが口から出ていた。 何を当たり前のことを聞いているのだろう。 賛兄は言っていた、乱世は悲惨を齎すが、同時に好機でもあるのだ、と。 「上げる。お前もだろ」 もとより己とて、そのつもりであった。 だからこうして、この場所に居ると言うのに――何を今になって、己は怖気付いているのだ。 手に残る感触。 血のにおい。 断末魔の眼差し。 その、全てが。 「こんな、血にまみれた私に……誰がついてきてくれるんでしょうね」 血にまみれ、無数の屍を積み重ね。 乱世で名を上げる、その為の道を作る。 そんなモノに、ついてくる人間など居やしない。 「……お前、人を斬るのが怖かったのか」 そう、名を上げることを望んでいながら、怖いと、そう思ったのだ。 人を斬ることが。 人を――殺すことが。 怖かった。 今でも――人を斬った今でも、怖い。 これから先人を斬ることが。 「甘さは捨てろ。甘い考えを持つなら、乱世に出るのはやめとけよ」 賛兄の言う通りだ。 こんな甘ったるい考えで乱世に出ようだなんて、とんだお笑い種だ。 「ついてきてくれる、じゃなくて。ついてこさせる勢いじゃないとな」 なら、尚更のこと己には無理だ。 人を斬ることが怖い、そんな甘いことを考えながら、乱世で名を上げようとしている。 そんな人間が、どうやって? 「まぁ、な。あれだ。安心しろ。お前、綺麗だから」 ……綺麗? 何を言っているのだろう。 言うに事欠いて――綺麗、とは。 「……意味がわかりませんよ。何言ってるんですか、賛兄」 何を考えているのだろうか、綺麗などと言われて喜ぶ男が何処に居ると言うのか。 それに――綺麗でなどある筈が無い。 あの時、切り結んでいた賊の。 賊の、首を――。 「血にまみれても、お前は綺麗だよ」 人を斬り、返り血を浴びて。 それでも人を斬るのは怖い、などと嘯く人間が――綺麗なわけが無い。 揶揄(からか)っているのだろうか? じわり、と肝(はら)の底に、怒りが滲む。 「馬鹿にしないでください! 私は綺麗ではない! とても汚い!!」 声が、荒くなる。 「その汚いところも全部ひっくるめて、綺麗なんだよ」 解らない。 何を言っているのだろう。 「賛兄」 黒煙が、目を刺した。 「……私は、甘いですよ。自分で充分わかってます。でも、私は」 そう、火を放つことを提言したのは、己だ。 逃げ遅れた賊の数人は、あの中で死んだだろう。 生きたまま焼かれるのは、酷く苦しい死に方だと言う。 それを解って、火を放つことを提言した。 「だからその甘さも含めて、お前は綺麗なんだって」 甘さが綺麗な訳がない。 一体何なんだ。 さっきっから。 一体何なんだ。 「甘さを捨てろって言ったくせに」 甘ければ生きてはいけない。 人を斬る、そのことを躊躇って、賊に斬られて死んだ者もいる。 甘さが綺麗だと言うなら、人を斬るのが怖ろしいと言いながら、人を斬って今ここに居る己より、躊躇い死んだ彼らのほうが綺麗ではないのか? 「そういうふうに悩む様子も綺麗だぞ。いや、本気で言ってるから」 解らない。 いや、解らないのは今に始まったことではないが、何時にもまして解らない。 「……なぁ、玄徳」 名を、呼ばれた。 「お前が世に出る方法に詰まったら、俺が送り出してやるから。だから」 何を言うのだろう。 同じ、乱世に名を上げようとする者同士は。 盟を結ぶことは出来ても、共に立つことは、出来ないのに。 なのに。 「お前、乱世の中で俺が死んだら、こっそりでいいから泣いてくれ」 「賛兄……」 何て言えばいいのだろう? その時には泣きましょう、とでも? そんなこと――言える訳がない。 だって、生きていくのだろう? 血に塗れても、乱世に名を上げ。 そうして生きていこうとする人間が。 何故、己の死を――そんなことを? 「よし、戻るぞ劉備」 だから、つきん、と何処かが痛んだのは。 きっと煙の――この黒煙の所為だ。 袁紹に敗れ。 最後には自刃したらしい、と、曹操はまるで何でもないことのように言った。 実際、この男にとっては何でもないことなのだろう――許昌を遠く離れた地で、熟れ過ぎた果実が、やがて自らの重みで枝から落ち、潰れるように消えていくであろう肥大した一族に、運の無い男が敗れ去った、その程度のことだと、思っているのだろう。 私はその男を、兄のように思っていた。 いや、今もそう思っている。 初めて人を斬った日、その男が居たから、私は、乱世に立つ覚悟を決められたのかも知れぬ。 泣きたかった。 こちらを見据えるこの男の目が無ければ、泣いていただろう。 ただ、この男の――曹操の前では、どうしても泣きたくなかった。 『お前、乱世の中で俺が死んだら』 あの時の私は、それを冗談だと思った。 いや――そう思いたかったのだろう。 兄と慕った男の死を、考えたくなかったのだ。 『こっそりでいいから泣いてくれ』 どうか、もう少し――もう少しだけ、待って下さい。 この男の前では。 この男の前でだけは、曝け出せないから。 未だ人を斬る、そのことに怖れを抱く甘さを、弱さを。 何とか言い繕って、席を辞して。 酔いは回っていたが、門扉を潜るまではそれも悟られたくはなかった。 それでも――雲長の顔を見た途端に。 ふつり、と何かが切れた。 「賛兄がね。袁紹に敗れたそうだ」 雲長は少し驚いたような顔をした。 「……こんなに早く、逝くなんて。思っていなかった」 空を、見る。 煌煌と照る月が、目に痛い。 「私が、生まれて初めて人を斬った時、賛兄に言われたんだ」 だから。 あの男の前ではないから。 「泣いてくれ、って。自分が死んだら、泣いてくれって」 涙が。 あの男は居ないから。 だから、今は。 私の手に血に塗れた剣を持たせて。 乱世に立つ、それを戸惑う背を押してくれた男の死に。 馬鹿みたいに、泣いてもいいだろうか? 「雲長」 そんな、馬鹿みたいに泣いている私を、雲長は黙って見詰めている。 もう一人の義弟とは違う寡黙さに、幾度私は救われただろう。 「なあ、お前は――お前たちは」 手を、伸ばす。 此処に在ると、それを確かめたくて。 「お前たちは、そんな約束は」 私のものとは比べ物にならない、広い肩も。 持ち上げるだけで精一杯な鋼の塊を、棒切れのように振り回す腕も。 此処に、在る。 生きて――在る。 だから。 だから、どうか。 「私より先には死なないと。そう、言ってくれ」 私より先には死なないと。 例えこの道が、堆く屍の折り重なる焼け野が原に続いていても。 例えその中のひとつが私の屍であったとしても。 どうか。 どうか。 ――生きてくれ。 〜ざくろゆう様より―マイナー劉備受祭出展・公孫賛×劉備小説〜 もう、こういうのを海老で鯛を釣るって言うんですよ・・・!! 以前開催したマイナー劉備受祭で私が公孫賛×劉備話を書きまして。 そうしましたらば、ざくろさまからこんな素敵な作品が!!! これ、何を隠そうっていうか嬉しさのあまり隠したくもないので堂々と言いますが(ぇ) その祭りで書いた私の公孫賛×劉備話からの連作なのです! しかも私に捧げてくださるとの有り難いお言葉付きで・・・!! そのお言葉に遠慮なく甘えて、飾らせていただきましたv あぁもう、いいんですか、私、こんな幸せ者で! ざくろゆう様、素敵小説有り難うございましたv |