[リロード]
BGM : Praeludium C-dur(J.S.Bach)
緒方は飛行機が好きではない。

だいたいなぜこんな鉄の固まりが空を飛べるんだ…?!

まごうかたなき鉄の固まりを常日頃路上でぶっ飛ばしてる御仁のセリフとは
思えない。
前時代な感覚だと他人に笑われるだろうが、上空を安定飛行中ならまだしも、
離着陸時のあの言いようのない感覚がどうしようもなく嫌いである。
実際、事故は離着陸の時が一番多いと言うではないか…!
どうして他のヤツラは
こんな不安定極まりない物に安穏と身を任せられるのか?
そんな心理をすっかり承知したかのように傍らの悪人は、
肘掛を離そうとしない手を、柔かく包みこんで微笑んでいる。
楽しそうだ…
コノ…誘拐犯め…!
本当なら今頃のんびり起き出して、缶ビールで咽喉を湿らせて一服点けて、
紫煙をくゆらせながら古今の棋譜などを紐解いていたはずなのだ。
それがなぜこんな窮屈なところに括りつけられなきゃいかんのだ…?!
寝ぼけながらもご自分の足で移動した事はすっかり棚に上げて、
ひたすら悪友を呪いつつ離陸の恐怖を忘れようとする緒方先生であった。
瞑目するその整った横顔をつくづくと眺めていた白川は、
長い溜息を吐くとゆっくりと緒方の首に手を回した。
「何す…」
抗議は貫徹しえず、やわらかいもので塞がれてしまう。
なおもうめく緒方に
「シッ」
と小さく戒めて、離陸の間中それは続いたのだった。

「グ…はぁッ…バ!」
解放された途端に罵声を挙げようとした緒方の口を大きい白い手が覆った。
「静かに。迷惑だろ」
ジワッと尾骨に響くような囁きで制せられて、不承不承黙りこんだが、
視線は抗議を続ける。
「悪かったね…ガマンできなくて…」
セリフだけは殊勝らしいが、コイツが悪いなんて思ってるわけがない!
いつもいつもしたい放題なぶりやがって…抵抗もできないのが腹立たしい。
世界中の誰でもいいから一人殺していいと言われたら、
オレは真っ先にコイツを殺る…!
怒りに任せて物騒な妄想に耽る緒方。
冷静に考えるなら実行時には九割九分返り討ちだろうが。
そしてもっと冷静になれるなら、
この騒ぎで離陸の恐怖は明後日の彼方にぶっ飛んでいた事に
気づいたかもしれない。
あいにくとそこまで人間ができてはいないのが緒方であった。
外をながめるふりして窓ガラスに移るそんな緒方を
眩しそうに見つめる白川が、果たして何を企んでいるのか。
知る由もないお連れの運命を読者よ、哀れに思いたまえ…。夕食は曲がりくねった小道の果て、半地下のレストラン。
「カタルーニャの家庭料理」
と題した日本語のメニューを給仕がうやうやしく差し出した。
が、残念ながら中を開くと鏡文字やひらがならしき手書きが踊っていて…
「何が書いてあるのかさっぱりわからん」
「え?」
緒方の突き出した日本語(?)メニューを見て白川も苦笑した。
「確かに」
手を挙げて横文字のメニューを持って来させた。
英語はお得意なはずの緒方に英語版を給仕がかしこまって差し出したが
「………………」
確かに英語ではあるのだが、元の料理名の直訳なのか、
これまたサッパリわからないのだった。
ウンザリして白川を見ると早くも何か注文している。
「君も飲むだろ?赤ワインでいい?」
「…まずくなければ何でもかまわん……」
だんだんご機嫌斜めである。
まぁ得意と信じていた分野で無能だと思い知らされて、
いい気分になれるものはいないだろう。
ただし、読者諸氏に念のため申し添えておくが、
これは別に緒方の英語能力を否定するものではない。
興味の無い分野には誰しも冥いものである。
緒方はどうやらそんなに凝った美食家ではないらしいというに過ぎない。
スペイン語圏の英語は知識人ご愛用の米国流フォーマル英語とは
一風異なるものである事実も申し添えておく。
もっとも筆者は緒方の喋る英語が中学生英語に毛の生えた程度
でないということを否定する事実を発見できていない。
この問題について研究を進めておいでの方があればどうかご教示願いたい。

さて食卓に話を戻すと、
デキャンタから香りのよい葡萄酒がグラスに注がれ、
ゆらめく蝋燭の向こうで微笑む人が言う。
「おめでとう」
「何がだ」
むくれていても尚カワイイ…などと思ってでもいるのか、
少し首をかしげて満足そうに続けた。
「いろいろ…今年のキミはすごかった。十段を皮切りに碁聖…」
「今頃か…!」
ふくれたフリをしていても少しご機嫌がなおってきたようである。
「今頃ですみません」
白川はテーブルの端にちょいと両手をかけ頭を下げてみせた。
ふわっと前髪が揺れる。
「でも忙しかったでしょ」
「オレがか…!」
「おつかれさま」
とグラスを軽く当てた。
チンと高い音を聞きながら少しセンチに行く年へ思いを巡らせた緒方である。

あぁ、今年は本当に色々あった…
自分にも。
そして先生にも。
今どうしておられるのか…

遠い地に想いを馳せた緒方をなじるでもあるまいが、
突然白川に脛を軽く蹴られた。
「テッ…何しやがる!」
「食べよう。悩むのは後回し」
別に悩んでなんぞ…と言い返してもいいのだが、そう言えば腹は減っている。
目の前の皿には美味そうに焼けた肉が幽かな音といい匂いをさせている。
思い切り良くナイフを使うと肉汁がこぼれ出した。
「気に入った?」
黙々とほおばる緒方にこんな問いは無意味なのだが。
「ウサギだってさ。初めてだボク」
緒方もそうなのか、白川は嘘つきでないのかも、
もはやどうでもいいことであろう。
無意味な会話(沈黙も回答のひとつではある)。
これこそ休暇というものだ。
快い軽いめの酔い加減でそぞろ歩くと夜の冷たさが心地良い。
荘厳なミサ曲が流れている。聖夜に相応しいBGMだ。
「何て曲だろうな」
「あぁ…バッハの…」
にこやかにスラスラ答える白川の口から流れた曲名は、
速やかに反対側の耳から流れ落ちた。
「ふぅん…オマエは物識りだな…まったく。だから対局を落とすんだな…!」
カッハッハと笑う緒方に気を悪くする様子も無い白川。
「それとこれとは関係無い…記憶野と計算野は脳の部位が全然違ってね…」
と今度は右脳と左脳etc.の解説が…
だ、だから何だッ…少しは気にしろ!
日頃何と呼ばれてるのか知ってるのか…
万年七段なんていい加減返上したらどーなんだ。
ブツブツ口ごもる緒方の心知らずの態で白川が肩を抱いて誘った。
「折角だから、教会、覗こうよ」
「柄じゃない」
誘いは誘いでも、もーちょっと違う誘いが欲しい気分だった緒方は、
少しむくれた。

「まぁま。ちょっとだけ…」

棺桶への道は変えようがないのか…。


〜 つづく 〜


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