+++ プラマイゼロの法則 +++

   =4=  子供は一日も早い自立を考え、親元で十代を迎える子供の減少。  実数など誰も知らないが、いつのまにか、十歳以下で自立する子供は半数を越えた。  子供が親を見限ったのか、親が子供を見捨てたのか……どちらが先か、なんてことは考え ても仕方がない。これも生きるための選択のひとつなのだから。  カイトが自立したのは、十歳の誕生日を迎えた秋だった。  父親が姿を消した家で、夫の帰りを信じて待ちながら、必死に二人の子供を養おうとして いた母親が病に倒れ、そして為す術もなく、永遠に喪われた季節。  あのときの選択を、カイトは後悔していない。  温かく迎えようとしてくれていた叔母の誘いを一人断ったことは。  子供のいない叔母は、子供を子供とせず、大人と対等に扱うヒトだったけれど、そこに愛 情はあると読み取ったから―――きっと世間の厳しさを教えてくれようとしているのだと思 ったから、病弱だった妹を任せた。  二人分の養育費を掛けてもらうくらいなら、妹の体のために。  母親を助けようと、少しずつ仕事の経験も積んでいたし、一人になってもどうにでもなる と思ったから。  実際の世の中は、想像以上に厳しかったけれど、後悔はしなかった。  その後突きつけられた現実の辛さも、世の理だと諦めることも出来た。  すべては無情であるモノだと、世間は教えていたから。 「本当に、方向は大丈夫なんだろうな?」  プラスが持ったペンライトよりは多少大きい程度の懐中電灯に照らされた濡れて光る地面 に注意を払って足早に歩きながら、背中に向けて問い掛ける。 「当然。言っとくけど、私は一度だって道に迷った経験ないのよ」  得意げな声はすぐ耳元から届いたが、カイトはいまいち信用なくため息で答えた。  あまり深く呼吸をすると、周囲の濁った空気に気分が悪くなるのはわかりきっているのだ が、さっきから嘆息は止められない。  予想以上の爆発の衝撃から立ち直った二人は、使い物にならなくなった台車を捨てて、結 局はカイトがプラスを背負って一路敷地からの脱出に向かうことになった。足をケガしたプ ラスを歩かせるよりはマシ、という程度に動きにくくなったが、それだけなら諦めもついた。  しかし。  建物に囲まれた陸の孤島的空間から抜け出るには、元来た道を戻るしかないとエレベータ ーのあった建物へと足を向けたのだが、その先で見たのは、先ほどプラスが殴り倒したはず の警備員たちが無線で話してる姿だった。 『……はい。爆破された模様です。確認した侵入者は二人。若い男女でした……』  再度見つかることは避けられたが、話の内容からしてすぐにも応援が駆けつけるらしかっ た。しかも、その警備員がエレベーター前から退く様子もない。  焦るカイトを余所に、プラスは『仕方ないか』呟いて、もうひとつの道を告げた。  ―――下水道。  全体の地図が得られなかったとの理由で、計画に組み込まなかった経路である。それでも、 プラスの方向感覚で大体の位置は把握できるから―――「野性的勘か」呟いて、叩かれたカ イトだったが―――人数のわからない警備員の待ち受けている道を戻るよりはずっとマシだ った。  マンホールを探して道を戻り、それはあっさり見つかった。  入った瞬間、その臭いに顔をしかめたが、我慢するよりない。下水道を選ばなければなら ないことへの不満は飲み込んだが、すべての文句を溜め込むことは出来なかった。 「……なんだかんだ言って、計画がずぼらだよな」 「ん?」 「普通わかるだろ。あの建物へ行く道がひとつしかなければ、逃げ道を塞がれる可能性が高 いって。下水道を使う気はなかったって、どっちにしろ使うことになるだろ?」 「まぁ、多少の身の危険は承知の上だし。しかも前提としては、あんなに派手な爆発を起こ す気はさらさらなかったんだけどねぇ」  苦々しく呟いて、爆弾の作り手への不満を込める。 「いつものことだけどさ。ゼロって計画の本番さえも作ったモノの試験場にするのが、難点 ていうか……なんであんな性格歪んだヤツがあの器用さを持ってるかなぁ」 「ヒトの耳元で愚痴るな、そんなことを。どっちにしろ、その性格わかってて組んだ計画な らお前にだって責任の一端はあるだろうが」  それを知らずに巻き込まれた俺の身にもなってみろ、とカイトがぼやけば「う、正論」唸 って、プラスはアゴを反らせる。 「しかも、多少の失敗も承知の上だし」 「……ちょっと待て。それはなんか言葉おかしくないか?」 「何が?」 「覚悟の上、ならまだわかるけど、それだと最初っから失敗する気でいたとしか……」 「そうだけど?」 「……は?」 「最初から、多少の失敗や危険も計算のうち。すべてを完璧にミスなく行動できる計画も立 てられないこともないけど、そこを削って」  思わず足を止めたカイトに、プラスはそれが常識だとばかりに説明する。 「どうせ隙なく埋めたところで、臨機応変に対応しなきゃならない状況になり得ることは多 いしね。だったら多少の穴はわざと作っておいた方が……」 「だからって……」  わざと失敗するのは、どうかと思う。  プラスの言うことも理解できるが、命の危険のある場所でやるにしては実験的すぎる。爆 弾の威力を本番で試すというゼロと、同じではないだろうか。 「わざわざ穴なんか作らなくたって状況によって臨機応変に動くことに変わりないだろ?」 「そこはそれ。プラマイゼロだから」 「……? わけわかんないんだけど」  怪訝に顔をしかめるカイトの足を促して、また歩き出したその背で語る。 「人生ってさ、結局良いことと悪いことが両方あるもんでしょ? その状況で動こうとしな けりゃ変化もないかもしれないけど。大概は状況ってのは動くもので……良いことも嫌なこ とも、順繰りに巡ってくるもの。“楽あれば苦あり”っての? その逆もあるから、その時 を乗り越える力が湧いてくる」 「…………」 「でも、それがわかっててもさ。どうしても乗り越えられないようなことがあるから、ヒト は自棄になっちゃったりするんだよね。今その時の辛さから逃れようとして」  人間は強くあるのも弱くあるのも、そのヒト次第だから。  周りが何を言っても、届かないことがある。 「そういうのって嫌でしょ。少なくとも私は……一時の感情で、自棄になったりしたくない。 ない、けど……どうしようもなくなる時も、あるから」  だから、自分で調整してプラマイゼロにするの、と。 「どうせ良いことと悪いことが両方巡ってくるんだったら、普段からわざと失敗もしてさ。 それを自分では乗り越えられる程度の失敗に調整して……成功ばっかりじゃ、突然の失敗に 弱くなっちゃう可能性もあるし。自分の鍛錬も兼ねて、ってとこかな」 「……そんな上手くいくか?」 「さあ? 良いことと悪いことの割合がどれほどのバランスで巡ってくるかもわかんないし、 そんなことしてても、潰れそうなほど辛いことは訪れるかもしれない」 「それでも、わざと失敗は続けるのか?」 「少しでも辛さを減らせる可能性があるなら、やってみるのもいいかなってね」  それは、一度なりとも潰れかけたことのある経験者の言葉。  あんな辛い思いは、二度と味わいたくないと。 「実際、ちゃんと切り抜けられてるし。この強運もそのおかげってことで」  言って、笑う。  言葉の陰に潜めた闇を振り払うように。 「……そう、かもな」  感じ取った闇の意味を知りたくもあったけれど、訊いても答えは得られないだろう。  だから、頷くだけに留めて、カイトは足を速めた。そんなカイトの心情を読み取ったのか、 プラスはもう一度そっと笑って。 「……な〜んて、全部マイナスの受け売りなんだけどね」  ポンとカイトの後頭部を叩く。 「三人の名前……プラスマイナスゼロって冗談みたいだけど、そういう意味ならいいかもな って。マイナスって口は悪いけど、考え方はマトモなのよね、意外と」 「……意外なのか」 「会えばわかるよ、と。あそこから出られそうじゃない?」  懐中電灯で照らした先に浮かび上がったハシゴを示す。  ようやく下水の悪臭から逃れられることに安堵するが、その先の不安を思うと、やはりた め息を吐いてしまうカイトだった。  マンホールを押し上げたプラスがそっと視線を巡らせたが、見える範囲に警備員の姿はな かった。  プラスの合図に這い出ると、とりあえず深呼吸を繰り返す。 「はあ……生き返る」 「大袈裟ねぇ。ま、下水道なんて好んで入る場所じゃないけど」  元通りにマンホールを嵌めて空を見やれば、変わらず上がる煙が思ったより遠い。  風向きで、今いる場所に煙が吹き込むこともなさそうだった。 「よし。なんとかなりそうね」 「今いる場所がわかるのか?」 「ホントに信用ないわけ? 大丈夫だって言ってるでしょ」 「信用してないわけでもないけど……また失敗してもいいや、とか言われたら、置いていき たいし」 「これ以上はナイってば。今で充分ギリギリだし」 「軽く言うなよ……で、どっちに行けばいいって?」  気を取り直し、再度プラスを背負って歩き出す。  煙に巻かれる心配はなく、いつのまにか警報が止まっていたりもして、もう警備員に追わ れる心配はないのではないかと錯覚しそうになる。  時々、サーチライトは変わらず地面や建物を照らしていくが、囮として走り回っていた間 の警備員との遭遇率を考えれば、無理もない。  自身の手で爆破した建物付近では、今ごろ消火作業で大騒ぎになってるかもしれないが、 その騒ぎもここまで届くことはない。 「……予定外、だったんだよな?」  ふと思いついて、足早に路地を抜けながら訊いてみる。 「うん?」 「ゼロかマイナスが、あの爆破見て、計画に支障が出たとか判断することはないのか?」 「マイナスは『またか』とか思ってるかもね。でも、それで行動を変えたりはしないよ」 「助けに来るってのも? って、そういや連絡取る手段とかないのか?」  ケガをしたのだから、せめてそれを知らせられれば、と思う。  予定外の爆破もあったことだし、脱出時の待ち合わせ場所、あるいは時間の変更も可能に なるのではないだろうか。  しかし。 「連絡取る手段はあったんだけどねぇ。爆風に飛ばされた拍子に変なとこ打ち付けちゃった みたいで」  カイトの目の前に腕を伸ばして言う。  その腕に嵌められた腕時計―――携帯型パソコンもどきにも見えるそれを示して、いくつ かのボタンを押して見せたが、わずかに妙な雑音が聞こえるだけだった。 「使い物にならないのよね」 「…………」 「ま、どっちにしろ、計画の変更はないけど」 「なんで?」 「そういう約束だから」  あっさり言って、壊れた無線のスイッチを切る。 「もし誰かが自分のミスで窮地に陥ったとして、それを助けることで計画が失敗に終わる可 能性がある場合、容赦なく切り捨てること」 「……!」 「嫌でしょ。自分のミスのせいで、別行動してる仲間まで危険に巻き込むのは」 「それはそうだけど、手を合わせれば……」 「うん。でも、最初からそういう約束で、仲間に入れてもらってるから」 「仲間に、って?」 「強引なのを承知の上で、無理矢理頼み込んだのよ。仲間に入れろって。二人は当然渋って ね。だから私は、ミスした時は容赦なく切っていいから、と。足手まといには絶対にならな い……それで仲間に入れてもらったの」  その経緯は、詳しく語ろうとはしない。  ただ、珍しく自嘲気味に言った。 「……どうして。そこまで仲間が欲しかったのか?」 「ん〜……どうしてかな。自分でもよくわかんない」 「…………」 「直感、ってことかな。誰でも良かったわけじゃないの。二人に出会ったあの時までは、ず っと一人で生活することしか考えてなかったんだけどね。なんでかなぁ……」  呟いて、カイトの後頭部に額を当てる。  押されるままわずかに顔を俯けて、お互いの表情が見えなくて良かったと思う。 (そんな話、されても……どう返せばいいのかわかんないだろ)  慣れない会話。  何のつもりで、プラスがこんな話をするのかもわからない。 (裏なんかないかもしれないけど。でも……仲間になるならないを、その程度の直感で決め ていいんだ。自分自身、明確な理由なんかわからなくても)  また、心が揺れる。 (俺を仲間に誘ったのも、そういう直感なのか? それとも、やっぱりただの冗談?)  考えるべきはそこじゃない。  わかっていても、訊いてみたくなる。  既に、プラスの言葉に踊らされてるみたいで嫌だけど。何より明確にしなきゃならないの は、自分の気持ちだと思うけど。答えを出してから確かめるのは、怖い気がして。 (……なんて、仲間になんかなれるわけないけど)  守りたいヒトがいて。  迷いなく、一番大事なのは彼女だと言えるから。  仲間を作るよりも、やらなければならないことがあるから。  路地を抜け、視界が開ける。  二十五メートルほど先に、敷地の外周を囲む塀がようやく見えた。 「待ち合わせはどこだって?」 「あっち。大きなコンテナが並んでるでしょ。あそこを……」  プラスが指差した先に、建物二階に届きそうな高さのコンテナが、塀から二十メートルほ どを隙間なく埋めて並んでいる。  カイトがそちらに足を向けようとした刹那。  耳に異質な音が届き。 「っ!?」  咄嗟に振り返ろうとしたらしいカイトが、バランスを崩して体を大きく傾がせた。一人な ら体勢を立て直すことも出来たかもしれないが、背負ったプラスと共に地面に倒れ込む。 「っ、カイト!?」  放り出された拍子に、またもケガした足を打ち付けたが、構わずうずくまったカイトに体 を寄せる。 「ぃてっ……ダイ、ジョーブだよ」  右腕を押さえた指の隙間から、薄闇の中でも血が滲んでくるのがわかる。  その容態を診るより先に、プラスはカイトを背に庇いつつ、第三者が現れた背後に険しい 表情を向けた。第二撃は来ない。相手は、右手に拳銃を下げて、ただそこに立っていた。わ ずかに照らしたサーチライトが、その表情―――不気味な薄笑いを闇に浮かび上がらせる。  格好は、何度となく遭遇した警備員たちと大差ない。身にまとう雰囲気だけが異質で、暗 い闇を映し出している鏡のようだった。 「…………」 「ふっ、これは驚いたな。若い男女とは聞いていたが、まさかこんなにも若いとは」 「ヒトを見た目で判断すると、痛い目みるわよ」 「気の強いお嬢さんだ。その状態で尚、抵抗する気を失わないとは。しかし、ケガ人に何が 出来ると?」  見抜かれている。  カイトに背負われていたのだから当たり前の話だが、プラスは舌打ちしたい気分だった。  ハッタリをかますにも、簡単に引く相手だとは思えない。隙を突いたとしても、この足で は立て直して身構える余裕は充分に与えてしまうだろう。 「そんな余裕ぶって、さっさと始末しなかったことを後悔することになるわよ?」 「それは楽しみだ。それに、こちらにも事情はあるのでね」 「急所を外したのは、わざとだと?」 「君たちが何の為に忍び込んだのか。他に仲間はいるのか。いくつか訊いておきたいことは ある」 「そんなことを素直に答えるとでも? お気楽ね」 「手間を省きたいだけの話さ。仲間がいるかどうかは、情に訴えればわかるだろうが」 「情?」 「傷ついた君たちを目立つ場所に晒せば、黙って見てはいられないと思わないかい?」  罠を掛ける、と。  仲間を見殺しに出来るほど、今の時代でも人間の情は捨てたモノでもない、と。 「な〜るほどねぇ。でも残念。それこそ無駄だわ。私たちは二人だけだもの」 「……まあいいだろう。とりあえずは」  男に隙はない。  手持ちの爆弾はまだあるが、ピンを抜き投げて爆発するまでのタイムラグを考えたら、使 えたものじゃない。薄闇の中とはいえ、真っ向に対峙しているこの状態で、相手の目を盗ん でピンを抜くことも不可能だろう。 (だから、せめて一丁くらい拳銃を携帯させろっていつも言ってんのに。ゼロのヤツ〜)  今ここで愚痴ったところで仕方ないことだが、悪態つかずにもいられない。  少しでも妙な動きを見せれば撃たれる―――確信があった。結局のところ、今一撃で仕留 めなかったのは男の戯れに過ぎない。  情報を引き出そうとしているのも偽りではないだろうが、ここで得る情報がなかったとし ても男に不利益はないのだから。コトは既に起こってしまったし、男の雇い主への報告が必 要だったとしてもどうとでも言える。  何か聞き出せれば運がいい―――その程度のことだった。 「あの建物……あそこに、何があったかはもちろん知ってるね?」  いまだ煙の上がる方向を、男は見もせずに空いた指だけで示す。  プラスの背後で、微かに呻きながらもカイトが視線を向けたらしいのが気配でわかる。 (パッと見、銃弾は掠っただけみたいだったけど、せめて傷口を縛るくらいのことはするべ きよね。って言っても、あいつがそんなことさせてくれるわけないだろうけど)  黙り込んだプラスを見て、男は肯定と判断したらしい。  勝手に頷いて、唇の端を吊り上げる。 「アレを嗅ぎ付けるとは、大した情報収集力だ。が、まさかあの建物内だけですべての栽培 を行えていたと思ってるわけじゃないだろうね」 (もし出血がひどければ、話を長引かせるのはマズイんだけど……ったくぅ〜、足さえ無事 ならこんなヤツ瞬殺してやるのにぃ〜〜〜)  表情には出さずに歯噛みして、それでも自然、眉は吊り上がる。 (……考えなきゃ。なんとしても、この男を出し抜く方法を。絶対に無事に脱出して、ゼロ に文句のひとつも言わなきゃ死んでも死にきれやしない!) 「あの建物を失ったことは、この会社にとって大打撃ではあるが致命傷にはならない。同じ だけ回復させるのに時間はかかるが、不可能ではない。何より栽培場所は別にあるのだよ?  あの建物の大きさ程度で、充分な量を生成できるわけもないだろう」  元を断たねば意味はない、と男は言う。  見下して、馬鹿にしきった口調で「中途半端で愚かな行為だったな」と。 「あの価値を考えたら……」 「荒稼ぎ、してたんでしょうね」  男の言葉を遮って、プラスは言葉を舌に乗せた。 「世に出回り始めてから約三ヶ月。在庫切れを起こすことなく、売りさばいてたようだし?」  表面だけでも余裕を取り戻して、プラスは息を吐く。  男との駆け引き……勝算は、まだ見つからないけれど。 「コカの木の亜種を利用したのよね。従来のモノより持続性が随分と上がって、ヒトによっ ては三十分近くも多幸感が続く……にも関わらず、値段は多くても既存の二倍程度。フリー ベイシングでも得られる恍惚感が十分程度しか持たなかった既存のと比べると、お得なんで しょうね」 「……コカイン?」  背後からの呟きが耳に届き、カイトへの説明を後回しにしていたことを思い出す。  仲間内で一人が情報を把握していないのは明らかにおかしいが、カイトの掠れた声は男に は聞こえなかったらしい。変化のない男の表情に安堵しつつ、どちらにしろ変わらない状況 には辟易する。 (カイトへの説明も出来て一石二鳥、な〜んて呑気に言えるもんでもないしねぇ……ま、事 実は事実として。後は、運次第。最悪、致命傷さえ外せばどうとでもなる。するっきゃない、 よね)  覚悟はある。タイミングの見極めさえ間違えなければ……自分に言い聞かせ、口では、男 が望むであろう回答を紡ぎ続ける。 「その辺の加工技術だとか種類だとかの知識まではないけど、これだけはわかるわ。ヤクの 開発や改造なんて、退廃的で愚かでくだらないことよ。何より過ちでしかない」 「過ち? くくっ、本気で言ってるのか? 求める者がいて莫大な利益を生む、これも商売 のひとつ。あの恍惚感を欲して……現実逃避をしたがる連中がそれだけ多いということだ。 苦しんでる人々に多幸感を与える……言わば、慈善事業の一種でもあるんじゃないか?」 「っ……慈善、事業……?」 「そうさ。苦しみに溢れる現実になど必ずしも向き合わなくてもいいと、示唆しているんだ。 特に、時代の流れに取り残されてる真面目一辺倒の愚か者たちにな」 「だ、から……だからって、何も知らない道行くヒトを強引に捕まえて、何の説明もなく吸 煙させるなんてバカなことを……っ」 「あんなのは最初だけさ。実験も兼ねてたが、世間に浸透させるためのデモンストレーショ ンだな。タダで与えるのももったいないし、引っかけたのはせいぜい十人程度……ああ、も しかして、君たちの知り合いが引っかかったのかい? なるほど。仇討ちのつもりか」  頷いて、男は初めて、その薄笑いを大きく崩した。  気でも振れたかのように笑い出し、その狂気を剥き出しにする。 「くっくっくっ、お涙頂戴の美談でも演じるつもりか!? 引っかかったそいつが、運が悪 かっただけの話だろう。そんなくだらないことで命を賭けるなど、愚の骨頂だな」 「……あんたなんかには、わからないんでしょうね。ヒトの命の尊さも、友を喪う哀しみも」  蟻走感に体中の皮膚を掻き毟り、血の滲んだ手で縋り付く少女の表情は今も目に焼きつい て離れない。泣きながら訴えるその声と共に。 『ムシがいるの……ねぇっ、這い回ってるの……取って……取ってよっ、いやあぁっ!!』  治療法などなく、ただ縋り付いてくる手を握り返すことしか出来なくて。  絶叫し、狂気と正気の狭間を漂う少女の苦しみは想像を絶するけれど、少女は新たな薬を 欲する言葉だけは決して口にしなかった。どんなに苦しくても、薬をなしに耐えようとして いた。  食事も満足に出来ずガリガリに痩せても、また元の健康な体に戻れることを信じて……  しかし。  ただ一度の吸煙が、少女にとっては致死量に到っていたことはすぐに知れた。元より効果 の強化された薬は、急速に少女の体を蝕み、その小さな命を奪っていった。 「あんたなんかにっ、私たちを……あの娘を笑う資格なんてないわ!!」 「そう、その顔だ。やはり、殺される者の顔は怒りや悔恨に満ちていないとね。こちらも張 り合いがないと言うものだ」  男は、プラスを見下ろした顔に、歓喜の笑みを浮かべる。望みどおりの獲物を前に、一撃 で致命傷を狙わなかった甲斐があったものだと、改めて下げていた銃口をプラスの額に向け て据えた。 「君たちの遺体は、もちろん有効利用させてもらうよ」  拳銃の細かい細工まで見える距離。 (どうせ撃たれるなら同じコト)  プラスはポケットに手を入れ、小さな筒に手を掛けた。  そして、銃声が響く。 「……っ!?」  咄嗟にカイトを背中に庇い、銃弾に撃ち抜かれた筒が男との間―――ほぼ中間地点で、爆 発するのに備えたつもりだった。タイミングも銃の狙う角度も計算した上で、放り投げた筒 は確実に撃ち抜かれるはずだった。  しかし、銃口から放たれた銃弾は予想外の離れた地面で弾け、次いで男の微かな呻き声が 聞こえた。目を向ければ地面に沈む男の首筋と拳銃を持っていた手の甲から生えた棒――― ナイフの柄だと直感的に悟ったが、その意味を理解するのに数秒遅れた。  唖然としたプラスは、驚愕に目を見開いて今にも命尽きようとしている男に目を奪われ、 新たな参入者に目を向けたのはカイトの方が先だった。 「……シキ?」  薄闇に浮かぶ白髪。  ゆっくりと近づいてくる少年に気づいて、カイトが名を呼んだ。  目元まで覆う前髪でその顔はほとんど見えないが、それは確かにカイトと同じ雇い主に従 って侵入した少年。  予想どおりなら、カイトを囮に『秘宝会』の名簿を手に入れているだろう本命。  わざわざカイトの前に姿を現すはずのない相手だった。 >>> MENU? 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