+++ プラマイゼロの法則 +++

   =5=  彼の過去に何があったのか、カイトは知らない。  初めて出会った時から感情を示さず、ただ従順にカスガ―――三年間、カイトとシキの二 人に体術から武器の扱い方、その他、雇い主の命令に従える駒としての道具になるように知 識と技術を与えてきた教師―――の指示に従っていただけだった。  ただわかったのは、シキにとって他人の命は何の意味も持たないこと。  他人に興味を示さず、まるで機械のように、命じられるままに行動する姿。  そして、そんなシキが唯一はっきりと示したのが、殺意だけだった。  目元まで覆い隠す長い前髪の隙間から、冷たい視線に代えて。  人間らしい感情を表さないと言う意味では、カスガとシキは似ていた。似ていると思った。 けれど、シキの示した殺意がそれを否定した。  シキにとっては、目に入るすべての人間が殺意を向ける対象だった。  最初、腕の痛みに朦朧としかける意識が見せた錯覚かと思った。  けれど、カイトが呼んだ名前にプラスも目を向け「……知り合い?」幻ではないと知れる。  カイトの呼びかけには答えず、白髪の少年―――シキは、たった今投げたナイフの結果を 見下ろしていた。首筋と手からナイフを生やして、地面に倒れた男を。  男の指が微かに地面を掻いたが、薄闇の中、じわじわと地に染み出す黒い液体が男は二度 と立ち上がれないだろうことを示している。男は、最期の力でわずかに目を上げ、シキを見 た。自分の命を奪う少年の無表情を。後は、今にも途切れそうな呼吸で、微かに肩を上下さ せるだけになった。 「…………」  前髪に隠れた顔から、感情は読み取れない。  カイトは歯を食いしばって、体勢を変える。片膝を立て、すぐにでも立ち上がれるように。 「シキ、お前がなんでここにいるんだ?」 「助けてくれたって雰囲気でもないのは、気のせい?」  カイトとプラスには目を向けようともしないシキに、プラスもまた体の向きを変えた。警 戒心を解かず、ポケットに残った爆弾の最後のひとつに手を掛ける。 「名簿のディスクを手に入れたら、すぐに退去のはずじゃなかったのか?」  シキは近寄っていった。カイトたちに、ではなく、倒れた男に。  そして、おもむろに首筋に突き立ったナイフに手をかける。 「シキ!」  止めろ、言いかけたが、シキは言い終える前に躊躇いなくナイフを引き抜いていた。  シキの白髪が、深紅に染まる。 「…………」 「何を……」 「シキ、お前っ!」 「ディスクはない。奪われた」 「っ!? 奪われたって誰に?」  訊いたけれど、「……どうして、生きてるの」うわ言のように呟きを返すだけだった。 「は?」  動かなくなった男を見下ろして、シキはもう一度抑揚のない声で呟く。 「『カイトが生き残れるはずはない。だが万が一、生きてあの敷地から脱出できるようであ れば殺せ』」 「っ!」 「ちょっ……何言ってんのよ、あんた!?」  血の滴り落ちるナイフを見下ろして、その手や腕までが紅く染まるのを見つめる。  その異様さにゾッとしたが、プラスはそれ以上にシキの言葉に憤慨した。 「殺せ!? 誰の命令だか知らないけど、寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! ディスク を手に入れる為に一緒に忍び込んだんでしょ。そんな相手を殺すって言うの!?」  今にも飛び掛らんばかりの勢いに、カイトは慌ててプラスの肩を押さえる。 「プラス! 気持ちはわかるけど、少し落ち着け」 「なんでカイトは落ち着いていられるのよ!?」 「先にキレるヤツがいると、勢いが削がれる」 「そういうことを言ってる場合!?」 「いや、だから……」ため息をひとつ吐いて、カイトはシキを見やった。  シキもようやくカイトに目を向ける。 「これも、試験の一種ってわけだ。生きるか死ぬか、ふたつにひとつ」  三年間、無感情なカスガとシキといる内にカイト自身、感情が薄れていった。一線を越え なかったのは妹への思いと、もう一人生活に距離を置きつつも関わっていたヒトのおかげだ が、そうして捨て切れなかった甘さをカスガに注意されたことは何度となくあった。  カスガは捨てさせようとしていたし、カイト自身、生きていくのにある種の非情さは必要 だと思いつつあった。それを手に入れたいとも思った。  けれど、妹への思いがそれを邪魔していたのを自覚もしていた。  今回のコレは、それを手に入れさせる為にカスガが用意した最後の手段なのだろう。 「ディスクが指定場所になかったことで自分が囮にされたことに気づき、尚且つその後の脱 出までの判断が一人で出来るか。それが最低条件なんだよな?」 「ちょっと。『殺せ』って命令受けてんでしょ? 最低条件も何も……っ、まさか」 「その上で、生き残りたければ『シキを殺せ』……カスガはそう言いたいんだろ」  生き残るのは一人でいい、と。  カイトのような甘さの残る人間は、この先役に立たないと判断したのかもしれない。雇い 主である東條が求めるレベルの駒を作る為に。  でも、もしここでシキを殺すことが出来るなら、カイトもまだ役に立つかもしれない、と。  だからシキに命令を下し、カイトの持ち物のひとつに発信機を付けた。受信機はシキに持 たせ、カイトの行動はすべて把握させて。  そうして、シキは受信機に従ってカイトの元へ来た。 「何よ、それ。あんたね、殺るか殺られるかどちらかしかない命令なんて、なんで素直に従 おうとしてんのよ!? そんな命令無視しなさい!」  ビシッとシキに人差し指を突きつけて、プラスが喚く。  しかし、その声が聞こえないかのように、シキは決してプラスを見ようとはしなかった。 ただ黙って、カイトに視線を返す。 「シキ。俺の契約について、カスガから何か聞いてるか?」 「…………」 「東條の言葉でもいい」 「『カスガが駄目だと判断したなら始末すればいい。契約のことなら構わん。あいつにはま だ妹がいるからな』」 「っ! あの野郎……」  カッと血が上って、その勢いで立ち上がる。 「シキ……引く気はないんだな」 「…………」 「俺がお前を殺さなければ、お前は俺を殺して、そして、今度はミズキが……」 「カイト? まさか……待ちなさいよ!」  足の痛みも忘れて立ち上がり、プラスはカイトの腕に縋った。 「ヒトの命を奪うってことがどういうことか、よく考えなさいよ。絶対に後悔しないって言 える!? 冷静に考えて、その意味がわからないはずがないわよね?」 「……プラス」 「一生の傷になるのよ。心の。それがヒトの命を奪って背負うってことよ。意識しなくたっ て、背負うことになるの。軽く見たって、いつか絶対にその重みに潰されるの。そんなこと に耐えられる人間なんていないのよ!」  だから、絶対に後悔する。  そう言って、プラスはシキを睨みつける。 「あんたも! 事情なんて全然知らないけどね、命令を受けたからって自分の心を無視しな きゃならないもんじゃないのよ! 自分の行動は自分で決めなさい!!」  命令を拒否することも、またひとつの選択。自分に命令していい相手も、その相手と関わ っていくことも、何もかもに自分で選んで決めていく権利がある。  けれど。 「ないよ」 「え?」 「何も選べない。選ばない」 「どうして?」 「…………」 「答えなさいよ!」 「プラス。命令に従わなければ殺される。カスガは……」 「そんな理不尽な場所にいなくたって、生きてく道はいくらでもあるわよ!」  叩きつけるように言う。  その激しさに、カイトは続く言葉を飲み込んだ。 「ここを出たらまた戻るの? カイトを殺して、戻ったらまた他の誰かを殺す命令を受ける の!? どうしてよ。ここを出たら別の場所に行くことだって出来るでしょ」 「でも、契約が……」 「ないよ」 「……え?」 「『人手が欲しい。一緒に来ないか? この時代に、勝者でいる方法を教えてやろう』」 「東條がそう言ったのか? お前は、自分の意思で……縛り付けるモノもないのにあんな腐 った場所にいたのか!?」 「……どこも同じだよ」 「同じじゃないわ! ヒトを殺さなくたって生きていける場所は……」 「何故?」  プラスの言葉を遮って、シキは呟くように言う。 「勝者も敗者もない。ヒトは同じ。場所も同じ。何も意味はないよ」 「……なら、あんたはどうして、東條の手を取ったの?」 「『誰よりも強くなる方法も教えよう。ヒトの命を奪うのは、簡単なことだ』」 「っ……あんたは、最初からヒトを……どうしてよ!?」 「誰も要らない。何も要らない。すべて、邪魔」  その瞬間、無表情の中に殺意が宿った。 「何も意味がない」  どす黒く汚れたナイフを、ゆっくりと投げる姿勢に構える。  結局、シキにとっては命令も意味がないことをカイトは知っていた。三年間、何度となく 向けられた殺意が甦って重なる。 「プラス、離せ!」 「でもっ」  言い募ろうとするプラスの手を無理矢理振り払って、カイトは前に向き直ろうとする。  が、シキがそれを待っている理由はない。 「おしゃべりも無駄だったね」  呟いて、初めてその口元に小さな笑みを乗せた。  構えたナイフ……そして。 「殺すの殺さないのと物騒な話してんじゃねえよ」  ガキが、と忌々しげな舌打ちが届くと共に、シキの体が吹っ飛んでいた。 「……っ!?」  大きく飛んだ小柄な体は、絶命した男の体を越えて、地面を滑った。  手から離れたナイフが、プラスの足元に落ちる。 「ったく、さっきので懲りなかったのか、このガキ」 「……マイナス」  茫然と呼ばれた名に視線を向け、突然乱入してきた男は呆れた様子でため息を吐いた。そ して、たった今、シキに蹴り付けた足を下ろして、顔に掛かる長めの前髪を鬱陶しそうにか きあげる。 「何遊んでんだ、お前は。時間わかってんのか?」 「時間、て……なんで、マイナスがここにいるのよ!?」 「あ?」 「私がミスしても助けには来るなって散々……」  喚くプラスを半眼で見やって、数歩で傍らに立つ。  マイナスはそのまま、プラスの目を真っ直ぐ見下ろして黙らせた。 「お前のミスじゃねえだろうが」 「…………」 「さっき連絡取ってみたら、ゼロも一応は反省してたみたいだったけどな」 「……反省したって繰り返すんじゃ意味ないじゃない」  呆れたように言い返し、すぐに「って、そういう話をしてる場合じゃ……」続けて喚こう とする。しかし、「ケガは?」とマイナスは取り合わずに質問する。 「…………足。捻挫……だけど、今回のはあの爆発はともかく、ケガしたのはアレの前なの。 だから、私が……」 「ふん。立ってられるなら大したことねえな」  プラスの足元を一瞥しただけで、プラスが言いかけるのも無視して、こっちの会話は打ち 切った。 「……マイナス?」 「まだ懲りないってんなら、今度は骨の一本や二本、覚悟しろよ」  視線を向けた先で、シキが泥と血にまみれた体を起こそうとしていた。 「くっ……」  蹴りの入った脇腹を押さえ、いつのまにか空いた手には新しいナイフを握っている。 「あ、さっきのでって、もしかしてディスクを奪ったってのはあんたか!?」  声を上げたカイトに、マイナスはチラリと一瞥しただけで「そっちのガキはなんだ?」プ ラスに訊いた。ガキ呼ばわりに言い返そうとしたが、それより先にプラスが答える。 「カイトくん。運命の出会いをしたので、仲間に誘ってみました」  キャ、と語尾にハートマークが付きそうな調子で言う。  コロっと変わった雰囲気に、カイトは呆気に取られたが、マイナスは慣れているのか「仲 間ねぇ」品定めするような目でカイトを見やる。 「ま、断られちゃったんだけどね」 「なるほど。少なくともお前よりは常識を知ってるヤツではあるんだな」 「どーいう意味よ?」 「どうせまた誘う理由は『直感で』とか言うんだろ。そんなもん普通は信じねえんだよ」 「なんでよ。直感は大事でしょ!」 「初対面でお前の“野性の勘”の鋭さがわかるわけないだろうが」 「野性の勘じゃないってば」  当のカイトを置いて、放っておけばいつまでも言い合ってそうだった。  その間に、ふらつきながらもシキが立ち上がる。 「おい、あんた! ディスクは……」 「うるせえな。あいつが持ってたもんなら、確かにオレが持ってるよ。何が入ってるか知ら ねえけど」 「秘宝会の名簿よ。なんで、マイナスが奪ってんの?」 「出会わせた時に、あの白いガキが倒れた警備員にトドメ刺そうとしてたんだよ。反射的に 止めに入って、もみ合った拍子に落ちたんだろうな」 「それを頂いてきちゃったわけ?」 「あの白いガキが先に引いたんだよ。その後で見つけたから一応拾っただけだ」  奪ったわけじゃねえよ、と不機嫌そうに言う。 「だから返してもいい。が、ここですぐに立ち去るなら、の話だ。残念ながら、これ以上ガ キの相手をしてる暇はないんでな」 「…………」 「だんまりかよ。チッ……おい、お前」 「え、俺?」  不意に話を振られ、カイトは思わず身構える。 「あの白いガキの知り合いだよな?」 「そうだけど……何?」 「時間がない。これはお前に預ける」 「えっ、うわっ!?」  フトコロから取り出したディスクを、マイナスはカイトが構えるのも待たずに放り投げた。  かろうじて受け取って、(預けられても……)戸惑いと共にシキを見やる。 「すぐに立ち去らない場合は返さないんじゃなかったの?」 「あの白いガキには返してねえだろうが」  言いながら身を屈め、プラスの足元に落ちていたナイフを拾い上げる。 「趣味の悪いナイフだな。柄まで血にまみれるなんざ、最低だ」 「……このディスクを、俺にどうしろってんだよ?」 「あ? 預けるって言ったろ。ヒトの話聞いてねえのか、ガキ」 「ガキ言うな! 預けられたって、俺は……」 「一緒にそれを盗りに来たんじゃねえのかよ?」 「それは……そうだけど」  こんな形で第三者から手渡されても、カイトが持って帰ればそれはカイトの手柄になるか もしれない……けれど、そこに何の意味があるのか。 (今更ディスクを持ち帰った程度で、カスガが俺を切り捨てる気なのは変わらないだろうし。 何より、俺自身がもう……) 「んな悩むことか。今だけでいいんだよ。深く考えんな」 「でも」 「あ〜うっせえ。とにかく、ここを脱出するまではお前が持ってりゃいいんだよ。その後ど うするかは好きにしろ。あの白いガキに渡そうが、お前がパクろうが、オレには関係ねえ」 「マイナス……何がしたいのか私にもわかんないんだけど。とはいえ、時間はないのよね」 「そう。だから、とりあえずお前は大人しくしてろ」 「え? ……って、ちょっと!?」  ひょい、と空いた腕で、マイナスは器用にプラスの小柄な体を担ぎ上げる。 「あのねぇっ、荷物じゃないんだから、この扱いはないんじゃない!?」 「大差ねえだろうが。どうせマトモには歩けねえんだろ」  肩の上でプラスが暴れるのをモノともしない。  さっきまでのカイトが背負っていた時よりもしっかりした足で、地を踏む。  その時、ようやく脇腹の痛みで散漫になった集中力が回復したのか、シキが動いた。 「シキっ!」  視界の端に見止めて、カイトが叫ぶ。シキの手からナイフが放たれたのとほとんど同時だ った。が、マイナスの反応が一瞬早い。プラスを担ぎ上げてるとは思えない身軽さで身を翻 し、迫るナイフを高く蹴り上げた。  さらに持っていた血に汚れたナイフをシキに向けて投げ返す。 「っ!?」  向けたのは刃ではなかった。驚愕で反応の遅れたシキの額に、ナイフの柄が命中する。  額を押さえて身を屈めたシキの足元に、続きたった今シキが投げたはずのナイフが突き刺 さった。マイナスが、一投目の後に蹴り上げたナイフを器用に掴み取り、そのまま投げ返し たのだった。 「ホントにしつこいガキだな。お前じゃ、オレには勝てないって言ってんだろうが」  たった数秒の出来事に、カイトは息を呑む。 (シキが反応できなかった……プラスの身軽さもそうだけど、こいつら何者なんだ? 何も かもに手馴れてる。経験の差……ってことか? 軽くあしらって、なのに……) 「もしまだ懲りないってんなら……」 「……殺せばいい」  シキの頑なな様子に、マイナスは眉を吊り上げたが、先にカイトが口を開く。 「誰も殺さないよ。シキ。お前ならわかるだろ。誰もお前に対して殺意を抱いてない。殺す 気なんかないんだ。俺も、そうだ」 「…………」 「失敗したからって死ぬ必要もない。プラスがさっき言ったとおり、他に生きる道はいくら でもあるんだ。このディスクは俺が持ち帰る。俺はまだ、契約があるから。それにケリを着 けるまでは今進んでる道を変えるわけにはいかないんだ。でも、お前は……どこにでも行け るだろ」  どこも同じだと言う。  けれど、それなら東條の下に居る理由もないはずだ。 「最初に望んだ強さの基礎は手に入れただろ。今度は別の場所で、別の望みを探せよ」 「……何故」 「お前、考えたことなかったろ? 自分から何かを決めることを。東條に誘われたから、カ スガに命令されたから……他人は自分を殺す存在にしか見えないから。お前の行動はいつで も他人の意思に左右されてる。でも、それじゃ駄目なんだ。お前は……俺も、俺たちは自分 で選び取らなきゃ」 「…………」 「俺もプラスもマイナスも、お前を殺そうとしない人間はちゃんといるんだ。他にも絶対に いる。お前にも好意を持てる相手は絶対にいるから。探しに行けよ。俺が最後の指針になっ てやる。お前なら東條の手からも逃げ切れる。だから、行け。自衛手段に殺人を選び取るよ うなお前なら、自分の命をもっと大事に出来るだろ」  シキへの憎しみを抱いていた。  彼の真意がわからず、その行動が許せなくて、ナイフを向けたこともある。けれど、あの 時刃先が迷い、無我夢中で振るったナイフが残したのは込めた力の割に浅い傷だった。  それは、カイトの中にある甘さのせいだと思った。  憎しみの対象にさえ、攻撃の出来ない自分の弱さだと。大切なモノを守るためには、どん なことでもすると心に決めたのに、実行できない自分が情けなかった。  しかし。 「俺はお前を憎みきれなかったんだ。お前の無表情と殺意は、自身の身を守るためにお前が 見つけた唯一の手段だってわかったから。お前は不器用なだけなんだ。俺と同じで」 「……殺さない?」  わずかに首を傾げて、前髪が揺れる。その隙間から、左目の上を斜めに走る切り傷が見え た。カイトが振るったナイフで付いた傷。視界を奪うまでには到らず、その目は光を失わな かったけれど、傷は消えないかもしれない。  そこに、かつて抱いたカイトの憎しみが重なる。  けれど。 「あのヒトはお前に対する恨みは、ひとつも言わなかったよ」 「別の望みを探しに……」  うわ言のように呟いて、シキはゆっくりと地面に膝をついた。  戸惑いに覆われ、地面に突き刺さったナイフを見つめて動かなくなる。 「シキ」  足を踏み出しかけて、その肩に手を掛けられる。 「時間だ。行くぞ」 「……は? 行くって……」 「ぼやぼやすんな。こっから脱出するんだろうが」 「そうそう。計画の仕上げがそろそろなのよ」 「っ、じゃなくて! 俺は仲間にはならないんだって。言ったろ。俺はディスクを持って東 條の屋敷に戻らなきゃいけないんだよ!」 「それはわかってるけどね、カイ……」  言いかけたプラスを余所に、マイナスは苛立った顔でカイトの体を力任せに蹴り飛ばした。 「っ!?」 「ゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ。お前が何を決めてるかなんて、んなことオレの知った ことか! そんなんは関係ねえんだよ。とにかく、この後どうするにしろ敷地からは脱出す るんだろ。だったら黙ってついて来ればいいんだよ。ったく、面倒臭えガキだな」  地面にしりもちを付いて唖然とするカイトにまくしたてた。 「……だ、だからって蹴ることないでしょ!? マイナスは言うことは大概同感だけど、そ うやってすぐに無抵抗な相手にまで手や足が出るのだけはダメだっていつも言ってるのに!」  しかもカイトはケガ人なのよ!? とガクガクと頭を揺さぶるプラスの手を振り払って、 「お前こそ止めろ! 突き落とすぞ!?」怒鳴りつける。プラスは手だけは止めたが、不満 そうに唸り、耳元でのそれもまた鬱陶しい―――プラス自身、その効果を知った上での嫌が らせだったが。  イライラと舌を打って、それらの苛立ちも込めて、マイナスは睨み下ろす。 「仲間になるならないもプラスが勝手に言ったことだろ。今は時間がねえんだよ。んなこと 考える暇があるか、バカ」 「…………」 「生きるって決めたんだろ。なら確実に生き残れる道を選ぶのは当然だろうが。それとも、 敷地から脱出して安全な場所まで逃げ切るのに、オレらについて来るのが不満だってのか?」 「ついてって……なんで?」 「このバカが世話になったからな。借りは借りだ」 「バカ……って、私!?」 「だから、耳元で騒ぐなっての。ま、お前が男のプライドにでも賭けて、自力で逃げたいっ てんなら無理にとは言わないけどな」  そこまで拒否する理由はない。  腕のケガもあるし、安全な場所まで連れて行ってもらえるなら、きっとその方がいい。 「でも、シキは……?」  目を向ければ、まだ微動だにせず座り込んだままだった。ただナイフを見つめて、うつむ いた顔はカイトたちからは見えない。 「あいつは放っとけ」 「っ……でも!」 「お前は充分伝えた。これ以上は、あのガキ自身で決めることだ。俺たちは殺さないが、そ れでも自分が許せないならそのまま死んじまうのも選択のひとつだからな」 「…………」 「大丈夫よ。カイトの気持ちはきっと伝わるわ」  無理矢理立たせて引きずって行ったところで、意味がない。  何より、さっきカイトが言ったことだ。自分で選べ、と。  答えを出すのは、シキ自身。 「わかったら立て。置いてくぞ」 「マイナスが蹴り倒したくせに」  また言い合いを始める二人を、苦笑気味に見やってから立ち上がる。  腕はまだ痛んだけれど、出血は止まりかけている。体を支えられるほどに力を込めるのは 難儀だったが、脱出するのに支障はなさそうだった。  カイトの様子を確認して、何やらマイナスへの文句を続けていたプラスを担いだマイナス は先に踵を返す。後はもう振り返りもせず、並んだコンテナに向かう。  その後についてカイトも歩き出し、数歩進んで、一度だけ振り返った。  気掛かりは残る。けれど。 「シキ、生きろよ」  心から偽りなく、そう言えた。  声がシキに届いたかはわからないが、視線を前に戻す一瞬、シキが顔を上げようとしたの が見えた気はした。  確認はしなかったけれど、きっと……  コンテナまで行くと、上に上がるように指示された。 「さすがにあの塀を自力で登って越えるのは無理だからな」  言って、マイナスはプラスを担いだままコンテナの横に詰まれた粗大ゴミのような小さな 山を使ってよじ登る。  建物の二階に届きそうな高さは、その先にある塀も同じだった。カイトが侵入に使った場 所よりわずかに高い。  この後どうするのかは訊くまでもない気はしたが、訊かずにもいられない。 「向こう側に飛び降りるに決まってんだろ。ちなみに向こう側の地面は、こっちの地面より さらに四、五メートル低いが、まあ死にはしないさ」  軽い調子で返ってきた答えにカイトは顔を引きつらせたが、他に選択の余地はなかった。 >>> MENU? 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