【さ行】


■サイモン&ガーファンクル Simon & Garfunkel
ポール・サイモン(ギター/ボーカル 1941年生まれ)とアート・ガーファンクル(ボーカル 1941年生まれ)によるフォーク・ロックデュオ。
1957年にトム&ジェリーという名でデビューし、改名後の1964年に「サウンド・オブ・サイレンス」が大ヒットする。
その後はポールの作曲とアートの美声で「ミセス・ロビンソン」「スカボロー・フェア」など多数の名曲を残した。
代表アルバム『明日に架ける橋』を1970年に発表して解散。ポールはソロになり、1972年の『ポール・サイモン』でレゲエに挑戦、以後ゴスペルのディキシー・ハミングバーズやフォルクローレのウルバンバらと共演するなど話題を呼んだ。
1975年に『時の流れに』収録の「恋人と別れる50の方法」がヒット、1986年には南アフリカの音楽をもとにした『グレイスランド』も大ヒットする。1990年の『リズム・オブ・ザ・セインツ』ではブラジル音楽にも手をひろげた。
アートは1973年に『天使の歌声』でソロ・デビュー、以後も順調にアルバムを出し続け、俳優としても活躍。
1981年には再びコンビを組んでライブアルバムを出し、1993年にもサイモン&ガーファンクルとして来日した。その後もときたま再編を繰り返している。




■サム・クック Sam Cooke
ソウルのパイオニア。彼の存在がなかったらこれほどソウルという言葉がポピュラーになったかどうかは疑問。
名門ソウル・スターラーズから世俗音楽への転身は衝撃だったが、後輩のシンガーを奮い立たせるのには十分だった。
1931年ミシシッピ生まれ。シカゴで育ち、早くから説教師だった父親の影響でハイウェイ・QCズ、ソウル・スターラーズを経験する。
1957年にソロになり「ユー・センド・ミー」の大ヒットを皮切りに、1960年にRCAに移籍してからもソウルのパイオニアにふさわしい曲を発表し続けた。
時には十代の夢を代弁し、また人生に悩む姿を投影したその奥深い歌は、まさにソウルの手本と言える。
1964年に射殺された。




■サニー・ボーイ・ウィリアムスン(T) Sonny Boy WillamsonT
後々まで生きたサニー・ボーイUの訴えにもかかわらず、オリジナル・サニー・ボーイがこのジョン・リー・ウィリアムズであるという事実は動かすことができない。そのためT世と呼ぶ。
1914年テネシーに生まれ、豊かなブルースを育んだブラウンズヴィルでハミー・ニクスンらの影響を受けてハーモニカの腕を磨くが、そのスタイルが確立するのは後にシカゴに出て1937年にブルーバードへ録音を始めてから。ビッグ・ビル・ブルーンジーらの後押しも受け、モダン・ブルース・ハープの基礎作りをした。
「サニー・ボーイ・ジャンプ」をはじめ、後世にカバーされている曲は多い。1948年、暴漢にアイスピックで刺されて亡くなった。




■サニー・ボーイ・ウィリアムスン(U) Sonny Boy WillamsonU
様々な生年が出ていたが、現在は"1910年ミシシッピ生まれ"が定説になっている。ライス・ミラーの名でも知られる。
活動歴はサニー・ボーイTよりも古いほどで、ロバート・ジョンソンとの行動も有名。
サニー・ボーイ・ウィリアムスンの名前は1930年代末に使いはじめ、1941年にアーカンサス州ヘレナのKFFAで「キング・ビスケット・タイム」というラジオの生番組を始めてから急激に名前が知れわたった。このラジオ番組が周辺地域に与えた影響はとても大きかったが、彼自身はほとんど流派に属さない生々しいハーモニカの音色と豊かな声で勝負した。
1951年にデビュー、1955年にチェッカーから「ドント・ミー・スタート・ミー・トーキング」のヒットを出すが、その時代は全てが傑作といっていいほど。1965年に死亡。




■サン・ハウス Son House
シンガー/ギタリスト。今や伝説となったデルタ・ブルースマン。
1902年ミシシッピー生まれ。
1930年にデルタ・ブルースの極みともいえる「プリーチング・ザ・ブルース (Preachin' The Blues)」をパラマウントで録音。このアルバムにはチャーリー・パットンやウィリー・ブラウンも参加している。
ロバート・ジョンソンやマディ・ウォータースに直接影響を与えた。3枚のSPが出されたが、戦前の録音はこの6曲だけで、1941、1942年の国会図書館用に19曲を録音した後、1943年にニューヨークに移り、1953年にウィリー・ブラウンが亡くなったあと消息を絶つ。
1964年に再び発見され、レコーディングを行い、1976年まで活動をしていたが、晩年はアルツハイマー病にかかる。
叩きつけるようなボトルネック・ギターと、のどのおくから振り絞りだすような声が魅力。
88年デトロイトで死去。




■ジェネシス Genesis
1966年、ピーター・ガブリエルを中心にイングランドのパブリック・スクールの学生によって結成される。
1969年にデビューアルバムを発表、1970年にはドラムのフィル・コリンズが加わった。
1975年のピーター・ガブリエル脱退までに『フォックストロット』(1972年)、『眩惑のブロードウェイ』(1974年)などの傑作を発表し、プログレ的なサウンドや演劇的なステージで好評を博す。
1978年以降はフィル・コリンズ、マイケル・ラザフォード、トニー・バンクスの3人で活動、ポップ色を強めていった。
5曲のシングルヒットを生み出した1986年の『インビジブル・タッチ』が代表作になる。




■ジェファーソン・エアプレイン Jefferson Airplane
1965年、サンフランシスコのヒッピー〜フラワームーブメントを背景に結成された。
1966年に女性ボーカルのグレイス・スリックが加入し、1967年の「あなただけを」がヒット、同年のアルバム『シュールリアリスティック・ピロウ』『アフター・ベイジング・アット・バクスターズ』も高い評価を受けた。
サイケデリックなサウンドとストロボなどを利用したライト・ショウ風のライブでサンフランシスコ・ロックのリーダー的存在になる。
1969年の『ボランティアーズ』などヒットアルバムも出すがメンバーチェンジが激しく、1974年にはジェファーソン・スターシップと改名、1975年に『レッド・オクトパス』が大ヒットする。
しかし相変わらずメンバーチェンジは続き、1985年には最後のオリジナルメンバーだったポール・カントナーが脱退、グループはこれを機に今度はスターシップと改名し、ポップ・ロック路線でヒットを連発した。
その後オリジナルメンバーでジェファーソン・エアプレインが再結成され、1989年にアルバムを残している。




■シカゴ Chicago
1969年にデビューしたシカゴ出身のグループ。
ジェイムズ・ウィリアムズ・ガルシオのプロデュースによるブラスをフィーチャーしたサウンドはブラス・ロックと呼ばれ社会的な歌詞とともに注目を集めた。
1970年の2作目『シカゴと23の誓い』からの曲「長い夜」は大ヒットになった。
1972年の『シカゴX』くらいから徐々にポップなサウンドに変化していった。
1982年のワーナー移籍後はAOR路線に活路を見出した。
1978年1月23日、ギターのテリー・キャスが拳銃の暴発事故で死亡。1985年にはボーカルのピーター・セテラが脱退しソロ活動を始める。




■ジーン・ビンセント Gene Vincent
1935年バージニア生まれ。
1955年の海軍時代にバイク事故にあい片足が不自由になる。
入院時から歌いはじめ、1956年に「ビー・バップ・ア・ルーラ」が大ヒット。60年代になるまでプレスリーに次ぐロックンロールのスターだった。
1971年に死去。




■ジョニー・ウィンター Johnny Winter
1944年テキサスのボーモント生まれ。アルビノ(白子)で、幼い頃からブルースに親しんで育った。
1968年に「ローリング・ストーン」誌で彼の存在が大きく報じられ、コロンビアと契約、白人ブルースギタリストとして華々しくデビューした。
1970年にリック・デンジャーと組んでからは『ジョニー・ウィンター・アンド/ライヴ』などロック色が強くなるが、1974年には再びブルースに戻り、1976年にブルー・スカイ・レーベルでマディ・ウォーターズと共演、『ナッシン・バット・ザ・ブルース』を残したほか、マディのアルバムもプロデュースした。
80年代に入ってからはアリゲーター、ヴォインジャー、ポイントブランクとレーベルを渡り歩き、現在に至っている。




■ジャッキー・ウィルスン Jackie Wilson
ベリー・ゴーティ・ジュニアが最も早く手がけたモータウンの先駆的存在と目される大アーティスト。
1934年デトロイト生まれ。ボクサーを経てシンガーになった異色の経歴を持つ。
最初ビリー・ワード&ドミノズで活動後ソロになり1958年に「ロンリー・ティアドロップス」のヒットを飛ばすが、この曲の明るくはねるような作り方にはモータウン・サウンドの原型を見ることができる。デトロイトを中心とする北部のシンガーに与えた影響は大きい。
1967年の「ハイヤー・アンド・ハイヤー」が代表作。晩年は病気がちで恵まれず、1984年に亡くなった。




■ジョー・リギンス Joe Liggins
トイ・ミルトンらとともに戦後のウェスト・コーストでR&Bのパイオニア的存在となったシンガー/ピアニスト。
1916年オクラホマ生まれ。1940年代にオクラホマに移り戦後の新しい流れを作った。
1945年にハニー・ドリッパーズというスモール・コンボを作ってエクスクルーシヴァからデビュー。ブギをベースにしながらも柔らかな味つけでR&Bに道を開いた。
ヒット曲は多いが、スペシャルティに移って50年に作った「ピンク・シャンペーン」がジョーのすべてを体現した名曲。
弟のジミーもジャンプ・ブルースの有名なアーティストだった。ジョーは1987年に死亡。




■ジョニー・オーティス Johnny Otis
白人だがR&B界のゴッドファーザー的存在。
1921年カリフォルニア生まれ。ギリシャ系白人だが育ったのはほとんどゲットー、結婚相手も黒人女性という徹底ぶり。
最初はカウント・ベイシー楽団のようなスタイルを目指したが、徐々にR&B界に深く関わり、リトル・エスター、メル・ウォーカー、ロビンズなどを発掘した。
そうしたシンガー/グループをフィーチャーしたジョニー・オーティス・ショー・スタイルのアルバムがサヴォイやキャピトルから発売されている。




■ジョー・ターナー Joe Turner
ジャンプ・ブルース、またはブルース・シャウターの代表的な一人。よく伸びる声は晩年までほとんど衰えることなく、まさにブルースに一生を捧げた。
1911年カンサスシティ生まれ。本名ジョゼフ・ヴァーノン・ターナー。いわゆるカンサス系ブルースの重鎮。ジャスの影響も受けたサウンドが特徴で、ピアニストのピート・ジョンスンと抜群の相性を示して、30〜40年代に「ロール・エム・ピート」などの名演奏/名曲を残した。
ロックンロール初期の作品「シェイク・ラトル&ロール」を1954年に歌っていることでも有名。
1985年に死亡。




■ジェイムス・カー James Carr
大きくブレイクしたり表面的に騒がれることはなかったが、ソウル・ミュージックを愛する人間にとってはかけがえのない存在である。
サザン・ソウルという限られた領域に、鍛え抜かれたノドは限りない表現の幅を与えた。
1942年メンフィス生まれ。ゴスペルの影響を強く受け1964年にメンフィスのゴールドワックスからデビュー、地元の音楽を凝縮してみせた。特にギターのクラレンス・ネルスンらを従えた「ラブ・アタック」の凄絶な表現は絶品というしかない。
カバーされることの多い曲としては1967年の「ザ・ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」がある。




■ジミー・リード Jimmy Reed
80年代に南部や黒人間で起こったダウンホーム・ブルース・ブームは、いってみればジミー・リードに還れということでもあった。
1950〜60年代に人気を集め、深く浸透していたのがジミー・リードことマティス・ジェイムズ・リードである。
1925年ミシシッピ生まれ。シカゴに出てからも1954年の「ユー・ドンド・ハフ・トゥ・ゴー」ではデルタ臭も強かった。しかし徐々にエディ・テイラーのウォーキング・ベースに乗せ、甘いメランコリックな歌とハーモニカをからませるスタイルを確立した。
ほとんどワンパターンと言える中にも独特な味わいがある。
1976年に死亡。




■ジャニス・ジョップリン Janis Joplin
1943年テキサス生まれ。
1966年にビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーに加入、ブルースの凝縮された迫力ある歌でセンセーションを巻き起こし、モンタレー・ポップの出演で大きな脚光を浴びる。
1968年に独立し1970年6月にはバック・バンドのフル・ティルト・ブギを結成しファンを急増させていったが、10月に薬物による急死を遂げる。
代表作『パール』(1971発売)が遺作となった。シングル「ミー・アンド・ボビー・マギー」は唯一の全米bPヒット。濃度の濃いブルースにロックを注ぎ込んだパワフルなボーカルは聴く人の心を強く打つ。




■ジャーニー Journey
元サンタナのニール・ショーン、元ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのエイズリー・ダンバーを中心に1973年にサンフランシスコで結成された。
1978年にボーカルのスティーブ・ペリーが加入、アルバム『インフィニティ』がヒットする。
ポップなアメリカン・ハードロックを演奏して人気を得たが、1984年に活動休止。
1986年に復活したが精彩を欠き、活動を停止した。




■ジャム The Jam
1973年、イギリスのサリー州ウォーキングでポール・ウェラーを中心に結成されたバンド。
ロンドンに出て3人組となり、1977年にシングル「イン・ザ・シティ」でデビューする。
音楽性とファッションには60年代のモッズのリバイバル的な雰囲気が漂っていて、当時のイギリスの若者の間では最も支持されたバンドだった。
その後音楽性の幅を広げ、1979年の『セッティング・サンズ』をヒットさせるが1982年に解散した。




■ジョージア・サテライツ Georgia Satelites
往年のサザン・ロックの香りを80年代に甦らせたジョージア州アトランタ出身の4人組。
ジョン・レノンが殺された1980年12月8日、いたたまれずに演ったジャム・セッションをきっかけに結成された。
1985年にイギリスで出したミニLPがヒットしエクストラと契約。1986年に「キープ・ユア・ハンズ」を全米トップ10に送り込んで話題になった。
3枚のアルバムを残して解散するが、ボーカルのダン・ベアードは1993年にソロデビュー、『無法者と愛の歌』をっだしてヒットする。
ギターのリック・リチャーズはイジー・ストラドリン&ジュ・ジュ・ハウンズのメンバーに加入した。




■シンプリー・レッド Simply Red
1985年、黒人音楽を愛するボーカルのミック・ハックネルを中心に結成されたマンチェスター出身の6人組。
1985年ファーストアルバム『ピクチャー・ブック』を発表、社会的な歌詞とハックネルのソウルフルなボーカルで注目を集める。
1986年に「ホールディング・バック・ザ・イヤーズ」が大ヒット。
よりソウル的なアルバム『メン・アンド・ウィメン』を1987年に発表してイギリス白人ソウルのトップグループになる。
1991年には屋敷豪太(日本/ドラム、パーカッション、プログラミング)も参加した『スターズ』も大ヒットをした。




■ZZトップ ZZTop
1970年に結成されたテキサス州エルパソ出身の3人組。
1971年にデビューし、1973年にローリングストーンズの前座を努めて注目を集める。 常に黒っぽいよれた背広に帽子をかぶり、サングラスに長く伸ばした髭がトレードマーク。ビデオクリップで真夏の砂漠で歌っていたときもこの格好はかわらなかった。
効果的なビデオクリップなどで徐々に人気をあげながら1983年の『イリミネーター』でトップ・グループの仲間入りを果たす。
1985年の10枚目のアルバム『アフターバーナー』の大ヒットで日本でも人気を得た。
1994年の『アンテナ』でも相変わらずヘビィなブギ・ロックを聴かせた。




■スタイル・カウンシル The Style Council
ジャムを解散させたポール・ウェラーと元ディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのキーボード奏者ミック・タルボットによる2人組。
1984年に『カフェ・ブリュ』を発表、モータウン系ソウル、ジャズ、ボサノバなどをより洗練させた形のサウンドにジャム時代の面影はなかったが、ポップファンからは支持された。
1985年のセカンドアルバム『アワー・フェイバリット・ショップ』は全英チャートbPに輝いた。
その後も黒人女性シンガーのディー・シー・リーらを加え同じ傾向のアルバムを出すが、1990年に解散。
ウェラーは92年からソロとして活動、タルボットはアシッド・ジャズの音楽に関わっている。




■スティービー・ワンダー Stevie Wonder
1970年代初期にマービン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、ダニー・ハサウェイと並んでニュー・ソウル運動の先頭に立った人。
1950年ミシガン生まれ。生まれつきの盲目だった彼はレイ・チャールズを目標に様々な楽器をこなす天才ぶりを見せ、1962年にはリトル・スティービー・ワンダーの名前でモータウンからデビュー、モータウンサウンドの上昇気流に乗る。
しかしそれに飽きたらぬ彼は1960年代から独自の音楽を追求、ロックやジャズをうまく融合させながら手のこんだ技法を取り入れた。
1973年の『インナービジョンズ』前後に代表作が集中している。




■スティービー・レイ・ボーン Stevie Ray Vaughan
1954年、テキサス生まれの白人ブルースロック・ギタリスト。
1978年に自分のバンド"ダブル・トラブル"を結成。1982年にエピックと契約、デビッド・ボウイの1983年のヒット作「レッツ・ダンス」にも参加した。
1983年の『テキサス・フラッド』、1984年の『テキサス・ハリケーン』など7枚のアルバム(未発表集も含む)がある。
ヴォーン・ブラザーズという名前で1990年に『ファミリー・スタイル』を出した元ファビュラス・サンダーバードのジミー・ボーンは実兄。
1990年8月、ヘリコプターの墜落事故で死亡。




■スティング Sting
1951年イギリス北部のウォールセンド生まれ。本名ゴードン・マシュー・サムナー。
1976年にスチュアート・コープランドと出会い、アンディ・サマーズを加えて1977年にポリスを結成。1984年のツアー終了まで、ほぼポリスの活動に専念した。
1985年からソロ活動をはじめ、ジャズ系ミュージシャンの協力を得て『ブルー・タートルの夢』を発表、ポリス時代とはまた違ったアプローチで大きな人気を得た。
以後、『ナッシング・ライク・ザ・サン』(1987年)、『テン・サマナーズ・テイルズ』(1993年)など哀愁を帯びたアルバムを出し、その後はジャズをミックスした独自の音楽を作り上げ、一般の音楽ファンにもその名を不動のものにした。




■ストレイ・キャッツ The Stray Cats
1979年にニューヨークで結成された3人組。
1980年にロンドンに渡り、デイブ・エドマンズのプロデュースによる「ラナウェイ・ボーイズ」でデビューし、ロカビリー・スタイルの力強いステージアクトで一躍人気グループになった。
アルバム4枚を出した後1984年に一度解散。
リーダーのブライアン・セッツァーは1986年にソロデビューし、ほかの二人もファントム・ロッカー&スリックで活動していたが、1989年に再結成。同年、再結成アルバム『ブラスト・オフ』を発表、以後も1993年の『オリジナル・クール』など数枚のアルバムを残している。




■ストーン・ローゼズ The Stone Roese
1985年にマンチェスターで結成された4人組。
1989年にファーストアルバム『石と薔薇』をリリース。マンチェスターのギターバンド特有のサイケがかったサウンドとポップなメロディが当時盛り上がっていたレイヴと連動して人気となるが、60年代の焼き直し的なそのサウンドをめぐって賛否両論もまき起こった。




■セックス・ピストルズ Sex Pistols
1975年8月、元ニューヨーク・ドールズのマネージャー、マルコム・マクラレンの手によって結成された5人組。
その後4人組となり、1976年11月にEMIから「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビューする。
しかし1977年1月にEMIが契約を破棄したためA&Mに移籍するがそこでもごたつき、結局5月になってヴァージンレコードと契約。その間にベースがグレン・マトロックからシド・ヴィシャスに代わる。
同年7月にクリス・トーマスのプロデュースでアルバム『勝手にしやがれ』を発表し、1978年1月にアメリカでツアーを開始するが、1月14日のウィンターランドでのコンサートを最後に解散した。
わずか2年あまりの活動だったが、彼らのライブや言動は世界中の若者に影響を与えた。
解散後、ボーカルのジョニー・ロットンは本名のジョン・ランドンに戻りPILを結成。シド・ヴィシャスはヘロインの打ちすぎで1979年2月に死亡した。




■ゼム Them
1963年にアイルランドのベルファストで結成された5人組。
ヴァン・モリソンのボーカルが最大のウリだったR&B色の強いバンドで、ヒット曲の「グローリア」や「ヒア・マム・ザ・ナイト」などがパンクバンドに与えた影響は大きい。
1967年にヴァン・モリソンがグループを脱退。ゼムはしばらくバンド活動を続けていたが、その後解散。







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